携帯依存症? ─ 高い電話料金のツケ
06年11月27日
No.260
初めての更新実行は、95点で成功だった。調子にのって2回目の更新をする。なぜマイナス5点かというと、分類を入れなかったことである。ブログの優れた機能のひとつが自動的に分類をすることだいう。もうひとつは、updateしたものに間違いがあった場合、これを訂正することにまだ自信がないことである。……
「はじめはすべて困難である」。マルクスの資本論の書出しの言葉である。だから95点の成功には満足しなければならない。それはそれとして、前号のことに関連してちょっといいたいことがある。最近の若者は携帯電話依存症なのではないかということである。私が目にする若者は、ちょっと暇があるといつも携帯電話に見入ったり、携帯電話をかまっている。会議の席でも携帯電話を開いてメールなどを見ている。さすがに携帯電話で話すことはマナー違反になるので、私と同じように席立って話しているが、それ以外はマンツウマンであっている時でも、会議中であっも携帯電話をほとんど無神経に見る。正直にいって、私はこうした行為が気になる。
私が携帯電話を持ったのはかなり早い方だ。いまから10年前くらいである。いまもっている携帯電話は当時としては最新鋭の"P208"だ。メール機能もあるが、私は使ったことがない。インターネットを始めてからメールは、モバイルのコンピュータでやっていたので、携帯電話でメールをする必要はなかった。
この10年間に携帯電話の機能は非常に進歩した。いまはパソコンなど持たなくともインターネットを見れるようである。そしてインターネットを携帯電話で見る人も含めてインターネット人口7000万人といわれている。携帯電話でWebサイトを見たことがないので何ともいえないが、コンピュータでWebサイトを見るのと本当に同じなのだろうか。少なくとも私はWebサイトに記事をのっける時、コンピュータでこれを見る人を想定しながら原稿を書いている。画像のことはWebマスターまかせだが、文章の長さ・段落の入れ方・バランスなどそれなりに気は使っているのである。
インターネットを見れるようにするために、携帯電話の機器の機能を増やしたのだろうか。それは、果たしてわが国におけるインターネットの健全な発展に寄与したのだろうか。わが国のインターネットの水準は、先進国の中で決して高い方ではないといわれている。原因はこの点にあるのではないか。携帯電話が普及しそれと同時並行的にメールが普及したのは、携帯電話で話をすると料金がかかり過ぎるというのが大きな理由だったのでないか。これは、私だけのひがみ・憶測だろうか。
いずれにしても、電車に乗っている時でも、どこに座っている時でも、会議中であったも人と話をしている時でも、若者は携帯電話を覗き込んでいる。そして何かあると若者だけではない、オバちゃままでも携帯電話をかざして写真をとる。これはいまや日本人のスタイルとなった。外国でもそうなのであろうか。日本で道を歩きながら携帯電話で話しているのが普通になった頃、アメリカやヨーロッパに行った。それらの国ではそれはあまり一般的な光景としては見なかったのだが……。
私は携帯電話を敵視している訳ではない。コンピュータを別に持ち上げているのでもない。何でもかんでもインストール、インストールなんていうコンピュータは正直にいって大嫌いだ。こんなものは所詮ツールでしかないと思っている。何のツールかというと、人と人が実際に出会い、話をしたり、行動を共にしたり、物を売ったり買ったり、愛の交換をしたりするための前提の情報をやりとりする補助的手段に過ぎないということだ。電波や光ファイバーで、実在する者・物の迫力ある魅力のすべてを決して伝えることはできないと私は思っている。だからバーチャルといわれているのだ。
メールで他人と情報をやり取りするより、直接会話する方がはるかに情報量は多い。だから、普通それだけお互いの意思や感情を伝えることができると思う。間(ま)・声色などによって表わされること、これも大切なものだ。メールでは表わせないもの・汲み取れないものが会話にはある。しかし、それをするとお金=料金がかかるというので、メール交換をする。寂しく悲しいことではないか。そして私から見たら携帯電話依存症なのではないかと思われる人間を大量に生み出したのだとしたならば、それは政治の責任である。通信政策は政府が決めているからだ。携帯電話にいろいろな機能を付けるのも結構だが、通信料金そのものを安くする。これがいちばん肝心かつ簡単なサービスなのではないか。バーチャルのもので満足させるようとする政策は間違いである。バーチャルもので満足する人間は、本当に健全で豊かな人生を送ることはできない。
それでは、また。