自公“合体”政権批判(3-その2)
07年05月29日
No.440
死者にたむける言葉というものは、難しい。昨日、松岡利勝農林水産大臣が自殺した。松岡氏は、1945年(昭和20年)2月25日熊本県阿蘇郡に生まれた。私は同年6月22日の生まれだ。同じ昭和20年生まれでも、8月15日以前に生まれた者にはこのように“勝”という文字が入るのがかなりいるのである。このように名前にも時代状況があるのである。歳は同じだが、国会に出たのは私の方が10年以上早かったので、松岡氏は私のことを“先輩”と呼んで話しかけてきた。あまり親しいほうではなかったが 、かなり人なつっこい性格だった。
20日ほど前、あるパーディに出席した時に、演壇に立った松岡氏は「私の親分は亀井静香先生である」といっていた。そのパーティには亀井静香氏も参加し、挨拶をしていたためであろう。このパーティで、私は両人には挨拶をあえてしなかったが、もしこんなことになるのだったら挨拶はしておくべきであった。人生、まさに一期一会である。「ナントカ還元水」と「適切に処理している」という答弁で非常に有名になった。遺書が数通あるそうだ。それをみないで言及をすることは避ける。“覚悟の自殺”以外は、自殺というものはそもそも正常な精神状態でないときに行われるのである。そのようなものであるから、自殺の原因を究明するという気にはなれない。同時代人として、また政治の道を歩んできた者として心からご冥福をお祈りする。
この前、社会保険庁を解体して“ナントカ機構”を作るという法律案の衆議院厚生労働委員会の答弁席で、“女は子供を産む機械”発言で松岡氏と同じように有名になった柳沢伯夫厚生労働大臣がえらくイキリたっていた。あの発言後のしおらしさは微塵もなかった。また彼本来の冷静さもまったく見られなかった。公明党との連立以来、自民党はおかしくなってきているのだ。いや自公“合体”政権は、日本の政治というものを完全におかしくしているのである。そのうちに日本という国もおかしくなるだろう。その兆候は現れているような気がするのは私だけであろうか。それでは昨日に引き続いて自公“合体”政権批判(3-その2)をお読みいただきたい。
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<永田町徒然草No.439からつづく>
毒消しとして自由党との連立を先行させる
小渕内閣でその野中氏が官房長官に就任した。小渕首相の方から働きかけてのか、創価学会・公明党の方から仕掛けたのかは定かでないが、野中官房長官の誕生により公明党との連立の機運は急速に強まっていった。小渕首相は公然と公明党との連立を口にするようになった。
平成11年9月、自民党の総裁選挙が行われた。この総裁選挙には加藤紘一前幹事長と山崎拓前政調会長(いずれも当時の呼称)が立候補した。加藤氏も山崎氏も公明党との連立に反対であると発言した。この総裁選挙で加藤氏は予想以上に得票をしたといわれたが、それは公明党との連立に疑問をもつ者から派閥を超えて支持を得たからであった。加藤氏の総裁選挙を一生懸命に応援した者として、私は自信をもってそのことを証言する。しかし、総裁選では小渕首相が大勝した。それは自民党の派閥力学からいえば当然の結果であった。
小渕首相は、総裁選挙で公明党との連立の支持を得たとして、一挙に公明党との連立をした。しかし、平成8年の総選挙で自民党が創価学会・公明党と激しい戦いを展開したことを国民はまだ忘れてはいなかった。世論調査などでは、公明党との連立に反対との意見が圧倒的に多かった。小渕首相とその周辺は、公明党との連立だけでは世論の反発が強すぎると考えて、自由党(小沢一郎党首)との連立を先行させることにした。
政党として筋を通したか否かが有権者の判断材料
自自連立に公明党が加わったのは、平成11年10月5日であった。公明党との連立では忘れてはならないのが、地域振興券の発行である。地域振興券は、平成11年4月1日から同年9月30日までわが国で流通した商品券の一種である。なんともおかしな政策だが小渕内閣は総額6000億円もの掴み金を支出したのだ。自民党からも「バラマキ政策」だと強い批判が挙がったが、公明党の強い要望により導入された。当時内閣官房長官であった野中広務が「地域振興券は公明党を与党に入れるための国会対策費だった」と後に話したと伝えられている。多分そのとおりであろう。
このバラマキ体質こそ、自公連立の最大の特質である。自由党との連立では、かなり詳細な政策協定が結ばれた。そして現実にかなり実施された。平成12年4月、生真面目な小沢自由党党首が、自民党と自由党との政策協定の全面実施を迫ったことが原因で、自由党は連立から離脱することになる。その心労もあって小渕首相は病気で倒れ、不帰の人となった。
小渕首相が死亡したとき、自民党の一部から“小沢氏が小渕首相を殺した”という小沢悪者論が噴出した。しかし、政党の連立とはそもそも非常に緊張関係があるものである。連立というのは、下手をすればその政党に壊滅的なダメージを与えることがあるのである。小沢氏としては自由党の生死をかけた、政策協定をめぐる交渉だったのであろう。小沢氏は政策協定を蔑ろにされるくらいなら連立は自由党の利益にならないと考え、政権離脱もやむを得ないと決断したのである。そしてこの連立離脱をめぐり自由党内でも意見が分かれ、政権離脱に反対する者は保守党を作った。自由党は分裂したのである。これは小政党であった自由党には厳しいことであった。
しかし、小沢氏の決断は、自由党の党首としては正しかったのだと私は思う。自由党が連立を離脱した2ヵ月後に、総選挙が行われた。政権から離脱した自由党は、18議席を22議席と伸ばした。一方、自由党から離脱し政権内に留まった保守党は、18議席を7議席と激減させてしまった。小沢氏は、政策協定を曖昧にしたまま政権に留まっても自由党は有権者の支持は得られないと判断したのだろう。政権にいることが必ずしも選挙で良い結果をもたらすというものではない。政党としての筋を通したかどうかが有権者から判断されるのである。
政策協定の実施は、真剣勝負
このことは、翌平成13年7月に行われた参議院選挙でもいえる。自由党は4議席を獲得したが、保守党は1議席を獲得したに過ぎない。かくして自自公連立は自公保連立となり、保守党は政権与党でありながら平成15年11月の衆議院議員総選挙では4議席しかとれず、自民党に吸収されることになる。一方、自由党は平成15年の総選挙前に民主党と合併し、野党第一党としてしぶとく生き残っている。現在小沢氏は民主党の党首である。
自由党と保守党の変遷をみれば、連立を組んで政権党になることが政党にとって常にハッピーな結果をもたらすとは限らない。要は連立のあり方が大切なのである。連立の大義名分が正しければその連立がある政党に有利になることもあるし、大義名分がなければ有権者の厳しい判断によって壊滅的なダメージを受けることもある。
その判断材料になるのが政策協定の内容とそれがどのくらい実現されたかということであろう。政策協定をめぐって連立与党同士が激しくぶつかり合うのは、当然のことなのである。それは非常に緊迫したものである。自社さ連立政権ではどの党も連立離脱をしなかったが、それはあくまで結果でしかない。自社さ3党の政策協議は非常に真剣かつ緊張したものであった。私は自社さ連立政権を作ることには深く関与したが、連立政権誕生後は衆議院商工委員長と自民党の選挙対策の重要な部署である総務局長を務めていたので、政策協議の現場にはいなかった。しかし、連立政権運営の中心にいた加藤紘一政調会長(後に幹事長)の側にいたので、政策協議の苦労はよく知っている。実際には何度も連立崩壊の危機があったのだ。
人はパンのみにて生きるに非ず
自公保連立や自公連立には、このような緊張関係があるのだろうか。自民党と公明党との間に政策協定は一応はある。自民党と保守党との間にも一応の政策協定はあった。しかし、これらの党が政策協定をめぐって自民党と激しいやり取りをしたことなど、1度もなかった。保守党の結成は、その経過からしてそもそも自民党に合流する一時的な止まり木に過ぎないものだった。だから自民党と保守党との政策協定など問題にする必要もないであろう。
自民党と公明党との連立に際して締結された政策協定となると話は違う。少なくとも自民党と公明党の成り立ちやそれまでの政治的パフォーマンスは、明らかに違うものであった。また政党としての理念や性格も大きく違うと考えられいた。そのような政党が連立政権を作る場合、国民に対してその政治的理由を明らかにする必要があるばかりでなく、両党の党員や支持者に対してもその義務があると私は思う。
先に述べたように公明党との連立にあたり、自民党は手付として6000億円の地域振興券を発行することを呑んだ。そもそも自民党にもバラマキ的体質はあったので、公明党が要求する程度のバラマキは自民党にとってそれほど痛痒を感じるものではなかったのである。
しかし、人はパンのみにて生きるに非ず、だ。両党との間には、“お金”だけでは解決できない差違や問題があった筈であった。少なくとも公明党にはどうしても譲ることのできない“何か”はあった筈だし、それがなければ長い間にわたり野党として国会にある程度の議席をもってきた政党としての存在理由を問われても仕方がないことであろう。だが、多くの国民が注視する中で、自民党と公明党が連立政権を作るにあたって緊張感のある政策協定の論議を重ねることはなかった。