リベラルは、専守防衛。
14年06月22日
No.1677
6月22日は、私の誕生日である。満69歳となった。還暦とか古希は数え年でいうから、私も古希を迎えたということになる。古希というと、親父が「70は古代稀だから“古希”いうのだ」と言っていたのを、懐かしく思い出す。その親父は古希を迎えたが、その数か月後に亡くなった。お袋も同じだった。来年の誕生日まで無事生きられれば、父母より長生きすることになる。せめて、その位は生きたいものだ。
辛抱強い永田町徒然草の読者も、集団的自衛権ばかりでは流石に飽きるとは思うが、いよいよ終盤戦になっているので我慢してもらいたい。わが国の憲法の下で集団的自衛権の行使が許されるかどうかは、憲法解釈である。憲法や法律を解釈する場合、いちばん大切にしなければならないのは、憲法の文言である。憲法の文言からかけ離れた解釈は、憲法解釈として許されない。
これまでにも、「憲法の文言から、集団的自衛権の行使を認めるのは無理である」と、私は度々述べてきた。憲法の文言だけから言えば、個別的自衛権の行使でさえ許されないという説にも、説得力がある。憲法制定議会ともいうべき国会で、提案者の吉田首相は、「憲法9条は、自衛のための戦争も放棄している」と、ハッキリと答弁しているのである。
現在、憲法学者の多数説も政府も「個別的自衛権の行使は許される」としているのは、あくまでも憲法の“解釈”としてである。憲法解釈も法律解釈も、憲法や法律にどのように書かれているかが第一義的に重要だが、その根底にあるのは、価値判断である。「わが国が他国から侵略されても、自衛行為すら許されないのか」について、法理論と価値判断に基づき、現在では多くの憲法学者も政府も、「憲法9条の下でも個別的自衛権の行使は、少なくとも否定されていない、許される」と、解釈しているのである。
いま行われている与党協議なるモノでは、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする、いわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」とする、1972年の自衛権に関する政府見解から都合の良い文言を取り出し、「集団的自衛権の行使は“限定的”ならば許される」という作文を作ろうとしている。このようなやり口は、“パクリ・盗用”以外の何物でもない。デマゴーグが好んで用いる、汚い手口である。
いま、自民党と公明党がやろうとしている手口は、実に薄汚い。手口が卑しい場合、普通は、その内容もいかがわしいものだ。しかし、私が指摘したいのは、安倍首相とその仲間が「集団的自衛権の行使は“限定的”ならば許される」との憲法解釈をしたい、その根底にある価値判断なのである。彼らは盛んに「国民の命と国民生活」を守るためには、集団的自衛権の行使が必要だという。実は、そこに最大の問題があるのだ。
わが国の憲法が戦争を放棄した最大の理由は、戦争こそ国民の命を奪い、国民生活を根底から覆すと考えたからである。そのことは、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」という憲法前文に最も、端的に表されていると思う。集団的自衛権の行使は、政府の行為そのものである。集団的自衛権を行使すれば、たとえ限定的であっても、必然的に「政府の行為によって戦争の惨禍が起こる」ことになるのである。
前記政府見解は、個別的自衛権の行使は容認されているが、「あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止やむを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである」としている。長い間、この安保防衛政策を私たちは“専守防衛”と呼んできた。
安倍首相とその仲間は、この専守防衛を止めたいのであろう。安倍首相は積極的平和主義を唱えている。専守防衛は、安倍首相に言わせれば“消極的平和主義”なのであろう。積極的平和主義の代表選手は、アメリカなのであろう。安倍首相はプーチン大統領とも個人的信頼関係があることを強調しているのだから、プーチンのような行動を頭においているのかもしれない。どちらも、自国の事のみに専念していないのは、事実である。
リベラリストの防衛政策は、基本的に専守防衛である。自国に対する武力攻撃に対しては断固かつ毅然と戦うが、自国に対する武力攻撃でなければ、武力の行使はしない。もちろん、他国に対して違法な“けしからん”武力攻撃を加える国に、武力攻撃以外のあらゆる手段を用いて対抗することは、否定されるものではない。国と国との戦争あるいは武力攻撃は、それなりの原因と理由があって起こるものなのである。それに、直接武力攻撃を加えられていない国が武力行使をしても、ロクなことにならない、とリベラリストは考えるからである。
専守防衛は、臆病なものでも卑怯なものでもない。国際的な国と国との相互関係は、基本的に独立自尊なのである。対立している国と国との問題なのであり、他の国が武力をもって出っ張っても、基本的にはロクなことにはならない。世界の警察官を自認していたアメリカがいろいろな地域に出っ張って行ったが、結局はロクなことにならなかったではないか。それが歴史の教訓である。だから、リベラル派の防衛政策は、基本的に専守防衛なのだ。
いま、集団的自衛権の行使に明確に反対している政党は、共産党と市民党である。公明党がリベラルでないのは、いまさら言うまでもなかろう。しかし、リベラルな政党や政治家がいれば、これまで述べてきたような理由で、集団的自衛権の行使に明確に反対するであろう。世論調査を見ていると、集団的自衛権の行使容認には、過半数近くの国民が反対している。その多くは、今日ここで私が述べてきたような理由によるものだと思う。政界再編のキーは、ここにもある。悲観する勿れ。
それでは、また。