友へ(その2)
11年05月29日
No.1488
前号の「友へ」で、暇をみてボチボチ書くといったのに、つまるところ先週は何も書けなかった。法律事務所の業務に追われていて、日々のニュース報道をチェックすることもできなかったのだ。散発的みるニュース報道には、議論しなければならないことが沢山あった。しかし、その論点を指摘し議論するためには、時間が必要である。私には、その余裕がなかったのだ。
私がいちばん問題に思ったのは、菅首相がG8サミットの席上で「人体にはいっさい被害が出ていない」旨の発言をしたことであった。人体に被害が及ぶ惧れが無いならば、どうして何十万という人々を強制的に避難させているのであろうか。あの発言を聴いた福島第一原子力発電所の事故で避難されている被災者は、いかなる想いをもったのだろうか。聞き捨てならない発言だったと思うのだが…。
日本のこれからのエネルギー政策も、噴飯物であった。何も、サミットでわが国の太陽光発電計画を、自慢げに述べることはないだろう。しかも、海江田経済産業大臣も初耳だという。もし大胆な太陽光発電推進策をサミットで発表するつもりならば、官僚にとことん詰めさせた上で、政治主導で発言すべきである。そうでなければ、誰もあんな計画を評価しないであろう。確か、2020年代のできるだけ早い時期に太陽光発電を20%にすると言っていたと思うが、目標としては、あまりにも漠然としている。
省エネルギー政策を太陽光発電の推進と並列に挙げていたが、これにも疑問がある。論理的には、省エネルギーはわが国の電力使用量を減らすという問題である。太陽光発電などの自然エネルギー発電の推進は、電力使用量の何%をまかなうかという問題である。何も菅首相が自然エネルギー発電を推進しなくとも、わが国の電力使用量に占める原子力発電の割合は、否応(いやおう)なしに大幅に低下するであろう。このことは、前に述べたので繰り返さない。
サミットでは、原子力発電の安全性を高めることが確認され、菅首相もこれに同調した。原子力発電の安全性を高めることには、誰も異存がない。しかし、原子力発電には、もっと根源的な問題があるのである。これについては、いずれ改めて述べたいと思っている。文明的な視座で考えなければならない、重い課題なのである。だから、皆が苦悩しているのだ。
原子力発電の安全性を高めることが必要なのは、当然である。しかし、安全でなくなった目の前の原子力発電所の危険を除去するのが、わが国の首相の責務なのである。言うまでもなく、福島第一原子力発電所の事故を収束させることが、菅首相に与えられた責任なのである。誰がやっても同じだろうという見解に、私は立たない。誰がやっても同じだというならば、論者は現在の状態を容認していることになる。私には、どうしてもそう思えないのだ。
政治家は学者でもないし、評論家でもない。学者や有識者に良く訊いた上で、目の前で展開する問題を解決するのが仕事なのである。学者や有識者の意見は良く訊かなければならないが、具体的問題に具体的な決断をしなければならないのは、政治家なのである。その決断のすべて責任は、決断した政治家にある。得体の知れない原子力発電所の事故と戦わなければならないのであるから、困難な任務である。望んでやりたいような仕事ではない。
政治に限らずすべての事において、「目の前の具体的な問題に対し出来ることをしない人」を、私は信じることができない。長い間、選挙を戦う場合もそうしてきた。だから私は、あまり騙されなかった。いま日々行っている債務整理の業務においても、同じことを貫いている。これも、基本的は間違っていないと確信している。私が現在の政治を論じる場合も、同じような考えで判断してきた。
自民党はやれることをやらず、やるべきことでないことをやったから自滅したのだ。今週、自民党と公明党は、内閣不信任案を提出するという。提出する方もこれを受ける方も、命懸けで考えて行動して欲しい。まさに、衆議院議員のど根性が問われるのだ。今回だけは、口だけで済まさないで欲しい。また国民も、今回の行動をみて、厳しい判断を下して欲しい。日本の政治の正念場だ。
今日はこのくらいにしておこう。それでは、また。