温故知新
07年03月05日
No.355
この週末の2日間、私は家に篭って原稿を書いていた。予定したものはだいたい書き終えたが、完璧という訳にはいかなかった。それは書かなければならない分量があまりにも多いからである。しかし、文章を書くということは良いものである。何となく頭の中にあったものが書くことによって少なくとも自分にとっては具体的にものもなってくる。それが読む人に具体的なものとして伝わるかどうかは、文章力である。この点は、正直にいって自信がない。
今回書いているものでいちばん長いのは、「命名――自公合体政権」という小論文である。小論文のつもりで書き始めたのだが、どうも小論文になりそうもない。書くべきことがあまりにも多いからである。正直にいって私がどうしたこうしたということを書くのは、私にとって退屈なことである。しかし、やはり書いておかなければならないと思って書いた。私にとっては自明のことであっても、そのことを具体的に書いておくことは必要なような気がするからである。一応書いておいて、あとは編集者に任せるつもりである。きっとその方が良い読み物になるだろう。それにしても私も過去を書いておかなければならない立場になってしまった。
私が経験したことを、私はひとつの記録として書いておかなければならないと考えている。しかし、単にそれだけではなく、過去をキチンと検証・総括しておくと現在の問題点が整理されこれからのことを予測するのに役立つからである。例えば、小泉政治をどう総括するかという点についてだが、退屈でも事実を丹念に追っていくと次のようなことが明らかになる。これはこの土日に書いたものの一節である。
「小泉自民党は2001年の参議院選挙と2005年の郵政解散選挙以外は、実は選挙に勝っていないのである。2004年の参議院選挙では、民主党50議席に対して自民党は49議席だった。2003年の衆議院総選挙では比例区では民主党に第一党の地位を許してしまったのである。どちらも政治的には明らかな敗北である。しかし、小泉氏というと選挙に強かったという印象が残っているのはどうしてであろうか。それは2001年の小泉フィーバーで勝った参議院選挙と小泉劇場を演出して雪崩現象を起こして勝った2005年の総選挙の印象があまりにも強烈だったからであろう。」
最近、安倍首相があまりにもダメなものだから、小泉前首相を必要以上に持ち上げる論調がある。小泉氏を政治的天才だという人さえいる。しかし、それは間違っている。彼は詐術的手段を用いた政治的詐欺師に過ぎない。いくら政治が結果責任だとしても、その手段の是非は問わなければならない。詐術的手段で大きな成果を挙げたとしても、それは政治的詐欺であって評価すべきことではない。結果が大きければそれだけ情状は悪いのであって、より厳しく断罪しなければならないのである。
都知事選や参議院選挙がこれからどのように展開していくのか、まだまだ不透明なところが多々ある。安倍内閣の支持率が落ちているので、参議院選挙について楽観的な見通しが多いような気がするが、ちょっと注意した方がいいような気がする。平成10年夏の参議院選挙、自民党にはまったく不安材料はなかった。すべてが順調だった。しかし蓋を開けてみると、45議席しか獲得できなかった。歴史的敗北であった。橋本首相と加藤幹事長は即日引責辞任をした。安倍首相の人気は、確かに良くない。だが、そのことがこの逆の結果を招かなければよいのだが、と思っている昨今である。
参議院選挙までまだ5ヶ月ある。この間に何が起きるか分らない。政治的僥倖を期待するのではなく、野党としてはやるべきことを淡々と着実にやっていくしかない。そのようにして手にいれた勝利でなければ、それを生かして次のステップに進むことはできない。それにしても観るつもりはなかったが、昨日のテレ朝の『サンデープロジェクト』はひどかった。あのくらい露骨にやれば、あえて私がその俗悪性を指摘しなくてももういいであろう。誰が企画をするのか知らないが、『サンデープロジェクト』の政治的俗悪性はいずれ問題になるであろう。「田原さん、人間は引き際が大切ですよ」といいたい。その点、円楽師匠は立派だ。
それでは、また明日。