いかなる国家への戦略か…!?
09年09月25日
No.1299
どうも5連休の関係で、永田町徒然草を書くのが億劫になってしまったようだ(笑)。でも、そういう訳にはゆかないようである。まず第一の理由は、相変わらず白川サイトへのアクセス数が多いからである。アクセスする理由は様々であろう。別に選挙に出る訳じゃないからアクセス数が気はならないが、一人の人間としてアクセスには応えなければならない。
政権交代の熱気・興奮が続いているからではないだろう。政権交代が実現できても政治の課題がなくなった訳じゃない。この世の中がある限り、政治の課題はある。政治がある課題に挑戦しようとするとき、必ず問題が生ずる。すべての人々が賛成などということは、政治の世界では滅多にない。何故そうなのか。相反する価値観・利益を調整するのが、政治の課題だからである。天国や彼岸はいざ知らず、この世は相反する価値観・利益が存在している。
なぜ相反する価値観や利益が存在するのか。それは一人ひとりの個人が存在しているからである。個人の尊厳を重んじる社会では、相反する価値観と利益を認めざるを得ない。個人の尊厳を重んじる社会は、自由主義社会である。だから自由主義社会は、相反する価値観と利益が存在していることを認めざるを得ない。誰が調整しても不満は残る。従って、多数決で決めるしかないのだと多くの人が言う。しかし、それに対しても次のような反論がある。
「私は、最大多数の最大幸福という説を信じない。その説は赤裸々に言えば、51パーセントの人が想像する幸福のためには、49パーセントの人の利益は犠牲にされなければならない、というものである。これは無慈悲な説であり、これまで人間性に対して害を及ぼしてきた。唯一の、真に威厳のある、人間的な説は万人の最大幸福であり、これは、極度の犠牲によってのみ達成され得るものである。」
上記の説は、日本人の好きなマハトマ・ガンジーの言である。“ゼロ”を発見した偉大な国の「マハトマ」とは、“大きな魂”という意味のヒンドゥの聖者に対する尊称である。この思想が、米ソ冷戦の時代に“非同盟”という強い同盟を築き上げた。アメリカという超大国の横暴を許さない国際的な同盟の原点はここにあるような気がする。その前では、“日米同盟”など実に軽佻浮薄でさえある。
「マニフェストに書いてある」などという言も、軽佻浮薄の謗りを免れ得ないであろう。あまり「マニフェスト、マニフェスト」などと言われると、怖くて気軽に投票など行けないことになるぞ!! マニフェスト(manifesto)は、“宣言書”であり、“積み荷明細書(manifest)”ではないのだ。新政権の大臣たちの言葉には、“深遠な理念”がほとんど感じられない。その代表例は、新政権の目玉の“国家戦略局”である。
私は国家戦略局の担当大臣である菅直人氏の国家観を聞いたことがない。菅直人氏のWebサイトを毎日みているが、何も書かれていない。ところで民主党はどういう国家観をもっているのか。理念としての国家観が示されないまま、一体どこに向かって突っ走しる戦略を描くというのだろうか。怖い。恐ろしい。まあ、このような不安を感じる人も永田町徒然草にアクセスする人々の中に多分にいるのであろう。そんなことを念頭に置きながら、これからも永田町徒然草を書き連ねていく心算(つもり)である。
それでは、また。