公明党の狂信的要素…!?
09年07月31日
No.1243
マニフェスト論争を各番組でやっている。やはり昨日述べたように、マニフェスト論争は、自公"合体"政権のこれまでの悪行(あくぎょう)に免罪符を見事に与えているではないか。私はそんな議論には興味はない。なぜ自公“合体”政権が悪行を行ったのか。なぜ自公“合体”政権が悪行を行えたのか。そのことを議論しなければ政治の本質を語ったことにはならない。
自公“合体”政権が行った悪行には理由(わけ)があるのだ。その権力構造に起因しているからである。権力構造とは、国家権力を構成する階級・組織・団体の構造である。1億2000万人の国民がバラバラに存在しているのではない。いろんな形で組織化されているのである。その組織は政治にも大きな影響力をもっている。それが固定化してくると、権力構造の源となる。権力構造を変えていかないと、本当に新しい政権などは生まれない。
「 (公明党が)自民党と連立政権を組んだ時、ちょうどナチス・ヒットラーが出た時の形態と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における狂信的要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁を安定化する機能を果たしながら、同時にこれをファッショ的傾向にもっていく起爆剤的役割として働く可能性を非常に多く持っている。そうなった時には日本の議会政治、民主政治もまさにアウトになる。そうなってからでは遅い、ということを私は現在の段階において敢えていう。」
これは藤原弘達氏の『創価学会を斬る』からの引用である。自民党という政党は、結局のところわが国のいろいろなエスタブリッシュメントが形作ってきた政党だったのであろう。その国のエスタブリッシュメントが政治権力を形成しようとすることはごく自然な姿である。自民党政治は、そのようなものであった。しかし、自公“合体”政権の政治は、これとは明らかに違う。同じように見たり考えていたのでは、真の敵を見失ってしまう。自公“合体”政権は、藤原氏が懸念した自民党と公明党が連立を組んだ時の“究極の姿”なのである。
公明党という存在などどうでもよい。創価学会の意向ひとつでどうにでもなる政党である。創価学会という存在は、宗教的・社会的・経済的実体のある組織だ。藤原氏はどのようなことをイメージして“公明党の中における狂信的要素”と言ったのであろうか。マニフェスト論争をする時、自民党の傍に座って与党の一員として発言している公明党の言動に注目する必要がある。野党は公明党とも論争し、その化けの皮を剝す必要がある。悪行を行ってきたのは、自公“合体”政権だからである。公明党・創価学会の存在を抜きに、この10年近くの悪行はあり得なかったのだ。
それでは、また。