過猶不及
09年04月27日
No.1153
幼い頃から「過ぎたるは及ばざる」とか「過ぎたるは及ばざるが如し」という言はよく耳にした。同じような場面で、学のある人は「過ぎたるは猶(な)お及ばざるが如し」という。結局どういうことなのか。過ぎたるは及ばない(足りない)ことよりダメだということなのか。それとも及ばないよりはマシだがあまり良くないという意味なのか。貴方も聞いたことはあると思うが、結局はどうなのだろうか。
ちょっと気になっていたので、改めて諸橋轍次の『中国古典名言事典』で調べてみた。 過猶不及。 過ぎたるは猶(な)お及ばざるがごとし。
道は中庸にある。何事も、過ぎたこともまちがいなら、及ばないことも同じくまちがいでである。(子張と子夏を評した孔子のことば)
要するに「過ぎたることもよくないが、およばないこともよくない」といっているのである。私などは、どちらかというと何事も激しく過ぎる方だ。黙っていたり何もしないことは、苦手なのだ。孔子に言わせれば“過ぎたる”方なのであろう。あまり激し過ぎるのは何もしないことと同じように悪いというのだ。少し不満はあるが、なにしろ孔子さまの言である。心しなければならないと思った次第である。
私は別にへそ曲がりではないが、大勢の流れに異を唱えることが多々ある。そうした場合、敢えてハッキリいわないと大勢に無視されてしまう。呑み込まれてしまう。そこで敢えて激しい口調・論調になるのだが、ついいい過ぎてしまうのである。そのために何度苦い目にあってきたことか。こういう場面における“及ばざる”は、大勢順応・大勢追随(大勢=体制という場合が多い)である。
孔子さまが「体制追随が良い」などと言っている筈がない。孔子さまが「中庸が良い」といって、どっちにもとれる優柔不断・曖昧な態度を奨励しているとも思われない。そうすると「過ぎたるは猶(な)お及ばざるがごとし」は何を言わんとしているのだろうか。どうもアウフヘーベンということを言っているのではないだろうか。アウフヘーベン[Aufheben]とは、「止揚・揚棄」と訳される。
「AでもBでもない、AとBを統合した上位概念・内実Cを作ること」をアウフヘーベン・止揚という。AとBを止揚した内実を構想するためには、AとBをまずよく理解しなければならない。分かり易くいえば、相手の言うことにも耳を澄ませてよく聴き、その上で己の考えを言うことなのであろう。そうしたとき、己の言い分を大勢の人々から納得してもらえる。政治的発言は、大勢の人々に理解と納得してもらえなければ、力にならない。政治的立場はハッキリしていても、“過ぎたる”ことにならないように心しなければなければならない。
それでは、また。