“提灯質問”・考
07年10月10日
No.576
昨日の衆議院予算委員会の質疑応答をみた。私が最も驚いたのは、冒頭4時間近くも自民党と公明党が質問をしていたことであった。福田首相は所信表明演説で国会を空転させたことを陳謝した。しかし、ようやくはじまった論戦の冒頭でこのような“提灯質問”を長々とするのは、一体どういう神経をしているのだろうか。要するに自公“合体”政権の反省というのは、口だけなのである。
かつて予算委員会の冒頭は野党第一党の社会党の論客(普通は委員長か書記長)が質問をしたものである。仮に自民党が質問をしたとしても1時間くらいするだけだった。それは自民党にも質問をする権利があるのだというお義理程度のものだった。だいいち自民党が質問をしても“提灯質問”と受け取られ、あまり効果など期待できるものではない。そんな質問をするくらい自民党は馬鹿ではなかった。国会質問を政治的にみるというのは、こういうことなのである。
“提灯質問”を得意げにやっていた自民党の国会議員も国会議員だが、これに嬉しそうに答弁していた大臣も大臣である。福田首相は自民党の総裁である。こんな日程をみたら、直させるのが政治的センスというものである。福田首相にはそういった政治的センスがないばかりでなく、所信表明で国会の空転を招いたことを陳謝したことは口先だけだということを自白しているのである。自民党や公明党は、相当焦っており余裕がない表れである。そう自公“合体”政権には、もう余裕などないのである。
民主党の一番バッターは、ミスター年金といわれている長妻昭議員だった。所信表明に対する代表質問も長妻議員だった。確かに年金問題は大切である。しかし、政権交代をしなければならないのは、年金問題に対する政府の対応だけではない。もっとトータルな政治的問題があるからである。その課題が大きければ大きいほど、政権交代をしなければならない理由が明確になり、賛成する者が増える。また政権交代が意味あるものとなる。そういった政治的質問は、長妻議員にはまだ無理だろう。民主党は政治的センスをもっと磨かなければならない。
政治とは複雑な問題の核心を大掴みにすることである。政治は大雑把といえば大雑把なものである。しかし、いい加減で良いということではない。そこが政治の難しさだ。優れた政治的センスは、現実を変えたいという真剣さの中からしか産まれない。自民党や公明党の“真剣さ”は、政権党でいたいという執念である。その執念は浅ましいほど強欲である。これに対する野党の執念は、政権を交代しなければ国や国民が救われないという不動の信念でなければならない。政権交代という言葉を耳にするが、このような不動の信念と裂帛たる気迫を私はあまり感ずることができないのである。心して欲しい。
それでは、また明日。