郵政造反議員の復党問題
06年11月28日
No.261
永田町徒然草No.256の「恐竜になろうとしている自民党 」で、郵政造反議員の復党をどう考えたらいいのかということについて、私はずいぶん突き放したいい方をした。そんなことではダメだという人が多いであろう。 自民党という政党はそういう政党なのだから事実を事実として述べただけだ。しかし、 ここは怒らなければならない。何をどう怒るか、これは結構難しい問題だ。……
昨年の郵政解散で、小泉自民党は郵政民営化法案の賛否を国民に問う選挙だといった。自民党か公明党の候補者に投票することが賛成の意思を表明することになる。そのために自民党は全選挙区に自民党か公明党の候補者を立てる。どんなに党員歴が長かろうが党に対する貢献度が高かろうが、郵政民営化法案に反対の者は公認しない。対立候補を立てる。ぜひ公認候補者に投票してほしいと訴えた。法律案に対する国民投票制度がない国政では、それなりに筋の通った主張である。そうすると郵政民営化法案に反対の立場を明らかにして選挙を戦って当選した衆議院議員の行動の方に問題があることになる。
平沼毅夫氏を除く全員が郵政民営化法案に当選後の国会で賛成した。問題はまずそのことにあるのではないか。自らの主張は選挙区では支持されたが、国民全体からは支持されなかったので賛成に回ることにしたという造反議員の発言を記憶している。この理屈が正しいかどうかだ。私は正しくないと思う。前回の総選挙が郵政民営化法案の賛否を問うものだったとしたら、反対を表明して当選した議員は最後まで反対しなければ自らに投票した有権者を裏切ることになる。その議員が賛成しなくても郵政民営化法案は通るのだから、それでいいのではないか。民営化法案が大多数の賛成で通るとしても反対意見があったことを明らかにするために反対票を投ずる。それはそれで意味のあることだ。反対を表明して当選したのに、その後に転向し民営化法案に賛成した議員の言い分・行動はこの辺からどうもおかしかった。
郵政民営化法案は可決成立した。国政は郵政民営化問題だけではない。郵政総選挙を国民投票的選挙と捉えるならば、民営化法案以外の問題について当選した議員は特に拘束されないことになる。だからフリーハンドなんだというのも分からない訳ではない。本当にそうだろうか。小選挙区の総選挙は、時の政府を信任するかしないかという選挙であるということだ。時の政権を構成する与党議員を信任するかどうかという選挙なのだ。自民党も公明党も、郵政法案に反対する議員を与党議員として認めないと宣言したのだ。いくら我こそは本当の自民党だといってもみてもはじまらない。それは犬の遠吠えというものだ。そもそも自らを排除した政党になぜ未練たらしく執着するのか。自分を排除した党が過ちを悔いて復党を求めるのなら分かるが、自ら過ちを認めてひれ伏して復党するというところが私にはどうしても理解できない。この面から考えると先の首相指名選挙で安倍氏に投票したことが、そもそもおかしい。安倍氏に投票することは、与党議員になるという表明であるからだ。
復党を認める(本当は復党を求めるといった方がいいのだろう)自民党の方はどう見たらいいのだろうか。郵政法案に賛成し、先の総選挙で党の方針に従わなかったことを反省しており、今後こういうことはしないと誓約書に署名しているのだからいいではないかというのである。本当にこれでいいのだろうか?総選挙というのは首相の首をかけた選挙なのである。もし与党が過半数を制することができなければ、単に郵政法案が通らないだけではなく下野しなければならないのだ。これは政党政治のイロハの問題だ。政党政治のイロハが分からない議員は要らないということで刺客まで立てたのだ。政党政治のイロハが分からない議員として断罪した者にどうして自民党は固執するのか。
もうひとつ思い出してほしい。郵政民営化は小泉改革の本丸である、郵政民営化法案に賛成できない者は、改革者ではないと看做したのだ。郵政民営化賛成といえば、およそ改革などと無縁な人物にまで改革者のお墨付きを与えたのだ。その結果、83名もの小泉チルドレンと呼ばれる議員が当選した。郵政民営化法案賛成=改革者、郵政民営化法案反対者=反改革者と看做したのだ。安倍首相は小泉改革を継承するのだという。反改革者を加えることにより、改革をさらに進めるという。これは矛盾している。明らかにおかしい。郵政民営化法案賛成=改革者などというのは、実はまやかしであったことに気が付いたのだろう。バブルで当選した83名の小泉チルドレンなどいつ吹っ飛ぶか分からない、それよりもあの逆風の中で当選した議員の方がほしくなったというのが本音であろう。
このようにいろんな角度から批判しようとしても、逆に擁護しようとしても、このように決定的なものとはならない。根本に立ち返ってみれば、法案に対する国民投票とした小泉首相の論法にそもそも間違いがあったのだ。選挙は、議員に対する条件付委任ではなく、全委任なのだ。当選した後、議員の行動に対して有権者も政党も法的に制限を付けることはできないのだ。これが憲法の考え方なのである。政治倫理に反したことへの評価は、次の選挙で有権者が投票行動で示すしかないのだ。造反議員の復党に対して論理的に明快な肯定も否定もできないのは、小泉マジックが産み出した特異な現象だからである。
しかし、論理的に明快な批判はできなくても、政治的に非難することはもちろん可能であるし自由である。「自民党をぶっ潰す」といって自民党を肥大化させた小泉マジック。改革をするといってかき集めた票も改革に反対だということでかき集めた票も、「ごっつぁんです」といって全部自分のものにしてしまう自民党マジック。それをよしとするかおかしいと考えるかは、有権者の意識・鑑定眼の問題だ。高い入場料を払って技量も手練もないマジックに引っかかるのは、観客が馬鹿だからだといわれても仕方ない。絶叫と対照的なマヌバー手法で国民を騙そうという安倍マジックに、今度は引っかからないようにしたほうがいい。下手なマジックを見させてもらう代償として、そのツケは高すぎるものになるからである。
「恐竜になろうとしている自民党」で、私は自民党という政党の本質を述べた。最近の自民党は、ただ政権党の議員でいたいという有象無象ばかりといってもいいほどだ。そんな自民党に偉そうなことをいってほしくないという私の気持ちだ。もうちょっとマシな自民党を作ろうとして一生懸命努力した者もかつてはいたのだ、その結果として現在の自民党があることを忘れないでほしいということだ。それができないというならば、自民党に落とし前を付けてもらうしか仕方がない。私の現在の心境はこのようなものである。公明党との連立に反対し、党内リベラル派が殲滅されたことに見切りをつけて自民党を離党した私にとって、今回の復党劇は他人事ではないのだ。
それでは、また。