自公“合体”政権批判(3-その1)
07年05月28日
No.439
白鵬が全勝優勝をした。これで文句なく横綱になれる。横綱昇進がかかった場所で全勝優勝をしたのは、吉葉山、輪島、貴乃花しかいないのだそうだ。横綱には心技体が求められる。白鵬は性格が良いから、きっと立派な横綱になれると思う。これからの私は一生懸命応援していくつもりである。さて、『月刊日本』6月号に掲載された「自公“合体”政権批判(3)」をupdateする。行数の計算を勘違いしたために、6ページの予定が10ページになっていた。少し長いので3回に分けて掲載する(『月刊日本』4月号は永田町徒然草No.374および375。5月号は同No.415および416に掲載)。
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“政権党でいたい” という浅ましい醜悪な連立
小選挙区制でのはじめての総選挙
平成8年10月8日政治改革ということで決まった小選挙区制によるはじめての衆議院議員総選挙が行われた。自民党は橋本龍太郎首相を戴して、加藤紘一幹事長を先頭に戦いに突入した。自民党は300の小選挙区のすべてに公認候補者もしくは推薦候補を擁立した。自民党が推薦した他党の候補者は10名前後であった。それは自社さ政権の与党であった新党さきがけと民主党と社民党の公認候補であった。民主党と社民党の公認候補者を推薦したのは、社会党が分裂し、民主党と社民党となったためであった。
自民党は300の小選挙区に候補者をすべて擁立できるほどの力は本当のところなかった。だから社会党と新党さきがけの候補者がいるところでその候補者を推薦することは十分できたのだが、社会党や新党さきがけの候補者の多くは自民党の推薦をそんなに希望しなかった。自民党公認とか自民党推薦というのは、そんなに錦の御旗にはならなかったからである。これは自民党に対する国民の感情が決してかつてのようなものでなかったという証左であろう。私が選挙の指揮を執った総務局長時代を通じて自民党の政党支持率は、30パーセントをちょっと超える状態であった。
自民党に対する政党は、何といっても新進党だった。新進党は250をちょっと超える小選挙区に公認候補者を擁立していた。また新進党は、自民党に勝って新進党内閣を作ることを明言していた。総選挙が政権をかけた選挙だとしたならば、自民党は政権政党であったので、過半数を確保して政権を組織することを当然のこととしていた。
新進党も250近くの小選挙区に候補を擁立し、新進党内閣を作ることを訴えていた。これに対して鳩山由紀夫氏と菅直人氏を共同代表とする民主党は143、土井たか子氏を党首とする社民党は43、武村正義氏を党首とする新党さきがけは13の小選挙区しか候補者を擁立していなかった。
“新進党は創価学会党である”というキャンペーン
個々の小選挙区では、民主党や社民党や新党さきがけの候補者が最強の候補者だったところもあるが、全国的にはまさに自民党と新進党の政権をかけた総選挙であった。200前後の小選挙区で自民党候補と新進党候補が、まったく互角の激しい選挙戦を展開していた。自民党候補者の売りは、たとえ連立政権であっても政権党であることだった。
もうひとつの強力な武器となったのが、“新進党は創価学会党である”というキャンペーンであった。創価学会に対する不信感や違和感は国民の中に広くあった。新進党の最も中核にあって強力な選挙母体をもっている創価学会の存在は、“新進党は創価学会党である”というキャンペーンの真実性を国民に強く印象付けた。創価学会は新進党にとって力強い最大の味方であったが、国民の半数以上が創価学会に対して不信感や違和感をもっている時、小選挙区の選挙においてはそれが仇ともなったのである。
しかし、忘れてはならない重要なことがある。それは、選挙を戦ったのは自民党と新進党だけではなかったことである。民主党や社民党や新党さきがけという政党も多くの選挙区に候補者を擁立したことであった。これらの3党は与党として選挙後自民党との連立政権に参加すると明言しなかったが、自民党に対して野党として対峙するとも主張しかなかった。“ゆ”党なる言葉も流行った。少なくとも反自民とはいわなかった。それに対してこれら3党は、アンチ新進党であった。自社さ政権の残存効果である。
一方自民党は、たとえ過半数をとっても民主党や社民党や新党さきがけとの信頼関係を引き続き維持すると明言した。実際問題として自民党が過半数を超えることは容易ではなく、また自民党に対する不信感が国民の中に残っている状態で自民党単独政権の必要性を強調してみてもあまり効果がないことを自民党は十分に知っていた。新しく生まれ変わった自民党と謙虚さを強調することが、自民党の広報戦略であった。
新進党の解党
平成8年10月20日第41回衆議院議員総選挙が行われた。結果は、自民党239議席・新進党156議席・民主党52議席・共産党26議席・社民党15議席・新党さきがけ2議席・民改連1議席・無所属9議席であった。自民党は過半数を獲得できなかったが、相対的にはダントツの第一党となった。新進党は156議席しか取れず、またその他の政党と連立を組むなどという友好的関係もなかったので、政権獲得を訴えていた政党としては惨敗といえる。
平成8年11月7日首班指名選挙が行われた。橋本龍太郎氏が社民党や新党さきがけの協力を得て内閣総理大臣に指名された。自民党は選挙期間中も友好的だった野党と連立を組むといっていたので、直ちに民主党や社民党や新党さきがけに連立して政権運営にあたることを申し込んだ。その結果、社民党と新党さきがけは閣外協力をすることになった。閣僚を出さない連立である。自民党は参議院で過半数なかったので、閣僚を抱えることを否定はしなかったが、両党は議席が大幅に減少したことを理由に閣僚を出すことを要求しなかったたのである。前にも述べたが、このあたりにも両党の政権に固執しない体質が窺われる。
政権獲得という観点からみたら総選挙で惨敗した新進党は、そのことが原因となって平成9年12月解党した。新進党の解党を機に自民党に入党する者が続出し、その結果自民党は衆議院で過半数を超えることとなった。万事が順調にみえた自民党ではあったが、平成10年7月に行われた参議院選挙で惨敗した。
平成10年参議院選挙の本当の敗因
この参議院選挙の敗因は、前年の国民負担増(消費税率引上げ等)・それに伴う景気の後退・失業率の上昇などといわれている。また投票直前の橋本首相の減税に関する発言が二転三転したことも有権者の不信を招いたともいわれている。私はこの参議院選挙を加藤幹事長の下で団体総局長として候補者を擁立しいる自民党の友好支援団体との折衝に当たっていた。世論調査や団体の動きなどから惨敗するような兆候はまったくみられなかった。
いま冷静になって考えると、複数区に目一杯候補を擁立して自民党単独で参議院の過半数を強引に獲得しようとしたことが、 “不遜な自民党の再来”と有権者の目に映ったのが最大の敗因だったのではないかと思っている。自民党は国民からみたらまだ執行猶予中の状況だったことを忘れてしまったのである。
橋本首相と加藤幹事長が引責辞任した。後継総裁を決める選挙が小渕恵三・梶山静六・小泉純一郎の三氏で争われ、小渕氏が総裁となった。衆議院は過半数を優に超える議席があったのだが、参議院では自民党は過半数を割っていた。折りしも長期信用銀行をはじめとする金融機関が破綻し、金融システムを守るためにどのような法律を作るか国会で小渕内閣は立ち往生した。このころから小渕首相とその周辺は、公明党との連立を模索するようになった。
国会対策上、参議院で過半数がないということは内閣としては辛いところではある。しかし、それまでも自民党が参議院で単独で過半数がない状態は何度もあった。参議院で過半数がないということを理由に連立政権が誕生したことはそれまでになかったことである。政権選択は、衆議院で決せられる。現に2007年の夏の参議院で自民党と公明党の与党の合計議席が確保できなくても、安倍首相は責任をとって辞任する必要がないと自民党の有力者が現に発言しているではないか。小渕首相やその周辺が公明党との連立を考えたのは、別の理由でありもっと根が深いところにあると私は思っている。
創価学会・公明党との阿吽の連携関係
小渕首相は羽田・小沢氏などが脱退し分裂した経世会の後身である平成研究会(小渕派)の会長であった。経世会の前身はいうまでもなく田中派である。田中派と創価学会・公明党には特別の関係があったことは広く知られている。その端は、藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』をめぐる創価学会の出版妨害事件にある。当時自民党の幹事長だった田中角栄氏は、国会対策の上で創価学会・公明党に大きな貸しを作ったといわれている。
公明党はすべての選挙区(当時は中選挙区であった)に候補者を擁立していたわけではない。公明党が候補者を擁立していない選挙区で、田中派の候補者は創価学会・公明党の支援を得ることにより田中派は膨張していった。田中派と創価学会・公明党は、阿吽の呼吸で連携し合っていたのではないか。そのことは創価学会・公明党の地盤が強い、従って公明党が候補者を擁立する東京都や大阪府などでは、田中派の国会議員が非常に少なかったことからも窺えるのである。
平成8年の総選挙は、新進党と正面から戦わなければ自民党の勝利はあり得なかった。新進党と正面から戦う以上、憲法20条の1項の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」という政教分離の原則を強調し、新進党の勝利は創価学会の政権参加となることを批判しなければ戦いにならなかった。
自民党は亀井静香組織広報本部長を先頭に徹底的に政教分離を訴え、創価学会の政権参加を批判した。しかし、幹事長代理で選対総局長であった野中広務氏は、一貫してこの路線に消極的であった。野中氏は小渕派を代表して自民党執行部に席をおいたのだ。形式上は選対総局長の席にある野中幹事長代理のこのような態度は、創価学会の政権参加を批判するキャンペーンを行う上で非常にやり難かったことは確かであった。