あゝ無題
14年05月10日
No.1668
テレビ朝日の『報道ステーション』2014年5月9日の放送を見ていたら、パウエル元国務長官の首席補佐官ローレンス・ウィルカーソン氏が、次のように発言していた。
私は、日本がいわゆる「普通の国」になるのを見たくありません。「普通の国」とはどういうことか?
「普通」というのは10年ごとに戦争に行って、あちこちで何人も人を殺す。
銃を持って石油を追いかける、爆弾を持ってエネルギーを追いかける。
それが「普通」ということなのだ。
同じ5月9日。東京・全電通ホールで開催されたシンポジュウムでは、アメリカの国家安全保障会議(NSC)の元メンバーで、秘密法の専門家であるモートン・ハルペリン氏が、「日本の秘密保護法は、国際原則からも逸脱・違反し、米国の同盟国の中でも最悪のものだ」と断言し、その理由として「民間人・ジャーナリストに刑事罰が課せられていること。公務員に対しては解雇など行政処分が国際原則であるのに、日本の法律は刑事罰になっていること」などを上げた。
私がこれらの発言に驚いたのは、どちらもアメリカの元政府高官であるからだ。前者のウィルソン氏の発言は、私自身、映像を見ている。正確ではないが、間違いなくこのような趣旨の発言だった。後者のハルペリン氏の発言は、『レーバーネット』の記事からの引用である。どちらも原典があるのだから、正確にはそちらの方を見て欲しい。
いわゆる「普通の国」論についても、国家秘密保護法についても、私は、彼らと同じようなことを発言してきた。同じようなことは、私以外にも多くの人々が発言してきた。ところが、わが国の政府部内からは、「普通の国」論や国家秘密保護法について、全く批判の声が上がってこなかった。重要な問題については、官僚の間でも批判があって当然なのだが、最近ではこのようなことは全くない。
両氏とも、元政府高官である。しかし、アメリカ政府においてはどちらの問題についても批判精神があり、その運用においても、私たちが危惧したことに対して、米政府内で問題意識をもって処理されていた点について、私は指摘したいのである。自由の国は、そうでなければならない。わが国の高級官僚の場合、総理大臣や大臣のイエスマンになることが本分だと考える者がほとんどだ。こんなことでは、自由の国など到底作れない。
私が言いたいのは、自由な国においてはあらゆるところに批判精神が必要だということである。批判に堪えないものは真実でなく、正しいことではないのである。安倍首相の右翼反動的な言動は、もう“暴走・国家破壊”の域に達している。政府部内や自民党内から批判の声が上がらなければ、わが国はもう自由な国などと言えなくなる。マスコミの無批判なタレ流し報道は、もう“大本営発表”の域に達している。マスコミ内部から批判が上がらなければ、わが国にはジャーナリズムなどないことになる。
自由を守るために、国民は闘わなければならない。自由を守る戦いは、時には文字通りの命懸けの場合もある。しかし、自由な社会を守り、自由な国を作るためには、そうした闘いが必要であると、自由を愛する人は覚悟しなければならない。そして、そのように闘う人を、国民は必死で支えなければならない。いまこそ、そのような勇気ある人が、政府部内からもマスコミの中からも、現れてこなければならない時なのである。
今日は、このくらいにしておこう。それでは、また。