傲慢不遜な憲法解釈の変更
14年03月01日
No.1657
「1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
冒頭の条文は、もちろん日本憲法第9条である。いま安倍内閣は、集団的自衛権の行使ができるようにするために、憲法解釈を見直すと言っている。その対象が、まさにこの条文なのだ。この条文のどこにも、「集団的自衛権」などという文言はない。それなのに、なぜ憲法解釈を見直す必要があるというのだろうか。それは、「わが国に集団的自衛権はあるが、憲法9条の趣旨から、これを行使できない」という、内閣法制局の確定した解釈があるからである。
日本国憲法は、昭和21年11月3日に公布され、翌22年5月3日に施行された。その制定過程から、憲法9条ほど問題となった条文はない。わが国の国会における憲法に関する論争の3分の1は、おそらく憲法9条に関するものだったと思う。最初に大きな論争の対象になったのは、もちろん、自衛隊(最初は警察予備隊)の創設であった。憲法前文と9条を素直に読めば、論争となるるのは当然であった。
現に、日本国憲法の成立過程で大きな役割を果たしたマッカーサー・ノートには、「国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。」とあった。
いわんとする意味は極めて明らかだが、さすがに、自国の生存を図る自衛権の存在・行使を明文で否定することは不適当とされ、GHQ原案からこの文言は削除された。これを土台にして作成された政府の憲法改正草案では、「1.国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。2.陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。」となった。
憲法改正が審議された第90回帝国議会の審議の過程で、芦田均衆議院議員から、いわゆる“芦田試案”なるものが出された。これが、現在の9条の原型となった。その芦田試案とは、次のようなものであった。そして、冒頭の文言となったのだ。
「1.日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず。国の交戦権を否認することを声明す。2.前掲の目的を達するため、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを抛棄する。」
芦田氏が、“前項の目的を達するため”と入れたのに深い意味があると言われているが、その実証的検証はなされておらず、本当のところは謎のままである。そもそも、憲法9条の解釈は、100以上の学説があると言われといるが、それは、戦争や武力行使などについてどのように考えるかによって、その解釈が編み出されたからだと、私は思っている。私は、第9条を文理上いくら解釈しても、結論は出ないと思う。
いま、いちばん重要なことは、学説上の解釈は横に置くとして、現実の政治の上で、憲法9条がどのように解釈され、どのように運営されてきたかである。その点については、比較的簡単である。自衛隊の存在は、憲法9条でも許されているということである。最高裁も、自衛隊について違憲判断を下していない。もちろん、自衛隊は自衛のための軍事組織であり、その装備も行動も、自衛のためのものでなければならない。国際社会一般で認められている“軍隊”とは、自ずと違いがある。
自衛のための戦闘行動を、個別的自衛権という。個別的自衛権が固有のものとして許されているのであれば、集団的自衛権も認められるのではないかという意見が出てくるのは、必然である。現に、そういう主張をする人が多くいた。そもそも日米安保条約は、集団的自衛権の行使そのものではないかという意見から、国民的な安保闘争となった。しかし、日米安保条約では、わが国に双務的義務がないので集団的自衛権の行使に当たらないと、政治的に決着したのである。
集団的自衛権の行使とは、わが国が現実に他国から武力攻撃を受けていないのに、一定の条約上の関係がある国に対して、武力攻撃がなされた場合、わが国に対する武力攻撃とみなして武力攻撃を行うことをいう。安倍首相などは、いろいろな例を持ち出して「このような場合に何もしないことは、信義の上で許されるないのではないか」と言っている。一見もっともらしいが、憲法9条を定めた原点に立ち返れば、そんなに難しい問題ではないのである。
わが国は、自国の生存を守るために他国からの武力攻撃や武力の威嚇に対しては敢然と対峙するが、それ以外の武力攻撃や武力行使は一切しないと憲法9条で定めたのである。もちろん、わが国だけの武力では他国からの武力攻撃を撃退できない場合もあり得る。そのために、日米安保条約を締結したのである。しかし、日米安保条約では、アメリカは、わが国が武力攻撃を受けた場合は共に闘うが、その逆は規定されていない。日米安保条約が片務だといわれる所以である。だが、アメリカもそれを承知の上で日米安保条約を結んだのだ。
このような過程の中で、歴代政権は集団的自衛権について、次のような答弁を繰り返してきた。「集団的自衛権はわが国にもあるが、憲法9条の趣旨に照らせばその行使は許されない。」その答弁をしてきたのは、内閣法制局長官であった。これは、わが国の内閣法制局の確定した解釈といって良い。日米安保条約の締結も、国際連合やPKO活動への参加も、すべて、このような解釈の上でなされてきたのである。
この解釈は、憲法前文および第9条の“普通の日本語の解釈として”おおむね妥当だし、また、国際およびわが国の政治情勢を総合的に判断して、極めて賢明であった。憲法9条を国民の中に定着させていくことは、政治的に極めて重要であった。答弁は、内閣法制局長官がしてきたが、長官が答弁するときには、当然のことながら内閣総理大臣にも相談して、その了承の上でなされてきた。だから、内閣法制局長官の前記答弁は、歴代内閣(その大半は自民党内閣)の考えといって良い。
憲法の文言も内外の政治情勢も変わっていないのに、「選挙で選ばれたのは総理大臣である私なのだ。その私が変えるということに文句があるのか」というのが、現在の状況である。安倍首相とその仲間たちよ、少し落ち着いて考えてみろ。一回ぐらい選挙で勝ったからといって、調子に乗るのもいい加減にせよ。多くの人々の叡智と努力で築かれてきたればこそ、現在の日本があるのだ。君たちがやっていることは、危なっかしくて、見ていられない。君たちは、この日本を壊そうとしている。しかし、日本国民と国際世論は、決して君たちに味方しないであろう。
今日は、このくらいにしておこう。それでは、また。