自公“合体”政権批判(1-その1)
07年03月24日
No.374
この白川サイトは、1999年12月開設した。それは、当時まだ現実に動いていた自民党と公明党との連立と戦うためであった。ホームページのキャッチ・コピーは「自自公連立を批判する」であった。当時の私の記述は、自民党と公明党との連立の是非をめぐる憲法論と政治論であった。その連立から10年余が経った。現在では、自公連立政権の現実的弊害を問題にしなければならない。以下は、『月刊日本』2007年4月号に掲載された私の小論(けっこう長いが…)である。乞う、ご高配。
自公“合体”政権批判(1)
――保守の信義にも悖る公明党との連立――
名誉ある離党者第一号
平成13年2月4日、私は自民党を離党した。
平成5年7月の総選挙で自民党は過半数を失い、野党となった。それから平成6年6月、自社さ連立政権で自民党が政権に復帰する一年足らずの間に自民党を離党したものは数十名に及ぶ。
自社さ政権の首班候補として村山富市社会党委員長を自民党は党議決定した。議員内閣制をとるわが国では、首班指名選挙において誰に投票するかということは国会議員のもっとも重要な投票行動のひとつである。首班指名選挙において、所属する政党の決定に従わないということは、政党人としての資質を問われる問題である。政党にとって最も重い除名処分にされても仕方がない問題といわれている。これは、郵政民営化法案の比ではないのだ。
自民党の場合、首班指名選挙の一回目の投票で村山富市の氏名を書かなかった者が十数名いた。社会党からも多くの造反者が出た。その結果、一回目の投票で村山氏は過半数をとることができず、決選投票にもち込まれた。もし一回目の投票で村山氏の対抗馬であった海部俊樹氏が過半数をとっていれば、海部氏が首相になっていた。その場合、村山氏に投票しなかった者の大多数は自民党を出ていった筈である。
自民党も社会党も、首班指名選挙で党の決定に従わなかった者を処分しなかった。首班指名選挙で他党と連携していた海部氏本人すら、最初は離党する必要があるのかという雰囲気だった。しかし、それはないだろうということで海部氏は渋々離党した。
自民党にとって政権参加の意義は大きかった。自社さ政権は、最初は村山氏を首相とする以外に成立もしなかったし、運営もできなかった。従って、自民党単独内閣に比較すればいろいろと問題がなかった訳ではなかったが、それでも自民党からの離党はピタリと止まった。政権党に復帰した効果は絶大だった。
以後自民党はずーと政権党である訳だが、平成17年9月の郵政民営化法案をめぐる総選挙で離党する者がでるまで、政治的理由で自民党を離党した者は私以外にひとりもいなかった。私はかなり長い間孤高を守ってきた名誉ある自民党離党者第一号といってもいいのかもしれない(笑)。
自民党に入った理由
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離 党 届
私は、一人の自由主義者として昭和52年自由民主党に入党し、今日まで党の発展のために微力を尽くしてまいりましたが、公明党との連立・平成12年総選挙の戦略戦術・加藤騒動に対する対応などに象徴されるわが党の路線・運営は、独立自尊の精神を失い、自由主義を標榜する国民政党たらんとするわが党の本旨に悖(もと)るものであり、これを容認しこれ以上耐えることは、誇りある自由民主党党員としてもはやできません。
よって、私は、離党いたします。
平成13年2月4日
自由民主党新潟県第六選挙区支部長
自由民主党党員 白 川 勝 彦
自由民主党総裁 森 喜朗 殿
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離党届にあるように、私が離党した理由のひとつは自民党と公明党の連立であった。他の理由もあるが、何といってもそのことが最大の理由であった。
私は自民党が公明党と連立を組むことに反対せざるを得ない深い理由があった。ひとつの理由は、公明党との連立は憲法20条が定める政教分離の原則に反するからである。しかし、もうひとつの大きな理由がある。「国民政党たらんとするわが党の本旨に悖(もと)るもの」という理由であった。ここのところはもう少し詳しく述べなければならないであろう。
私は自他ともに認める自由主義者である。だから自由主義を標榜する自民党に入党したのである。私が国政を目指して政治活動を始めたのは、昭和50年であった。その当時の政党の中で自由主義を党の基本理念として標榜していたのは、自民党しかいなかった。公明党ですら、「人間性社会主義」という意味不明な言葉を綱領の中で使っていた。
従って、自民党が真の自由主義政党であるかどうかは別にして、自由主義者である私が所属すべき政党は、自民党しかなかったのである。私も当時すでに30を過ぎていた。だから自民党の現状がどのようなものかはある程度知っていた。自民党の中で、自由原理主義者のような主張や行動をするつもりはなかった。しかし、不完全な自由主義政党である自民党を、真の自由主義政党に改革していくことは私の最初からの問題意識であったし、そのように活動してきたつもりである。
私は加藤紘一氏の引きで宏池会に所属することになった。昭和54年に衆議院議員に初当選したが、宏池会に籍を置いたためであろうか、党内の諸活動において自由主義者として行動するのに大きな障碍を感じたことはない。いろいろな問題がなかった訳ではないが、離党を考えたり迫られるようなことは一度もなかった。
保守は自民党のレゾン・デートル
私が、公明党との連立を「国民政党たらんとするわが党の本旨に悖(もと)るもの」と書いたのは、万感の思いを込めてのことであった。
公明党でさえ「人間性社会主義」と綱領に謳うほど、社会主義は国民の心のある部分を掴んでいたことなのである。そのような風潮の中で、自由主義を標榜するということは、自民党は社会主義を採らないという政治的旗印なのである。社会主義というと革命を国民は想起する。社会主義に対して自民党が自由主義を標榜したことは、政治的に保守であることを闡明(せんめい)することであった。「革新」と呼ばれた社会党・共産党などの野党ブロックに対して、自民党は「保守」をもって対峙した。保守vs革新は、55年体制のもっとも分りやすい政治的な構図であった。
その証拠に、自民党の中で自由主義者であると明確にいう者は多くはなかったが、自分を保守主義者といわなかった政治家に私はお目にかかったことがない。また自民党の支持者もそうだった。国民は自由主義と社会主義の違いで政党を選択するよりも、保守か革新かで政党や政権を選択したのである。
自民党が長い間衆議院で過半数を確保できたのも、保守であることの安心感がそれを可能にしたと私は考えている。自民党は自らを国民政党といってきたが、国民政党たる自民党は間違いなく保守政党であったからこそ多くの国民の支持を得てきたのだ。だから保守であることは、自民党にとってレゾン・デートルなのである。
それでは、保守とは何か、保守政党とはどういう政党のことをいうのかというと、これはまたけっこう難しいのである。ここではその論述は避けることにする。極めて大雑把にいうと、保守とは形而上的な理論や主義で現実問題を律しようとするのではなく、現に存在している現実を大切にしながら問題を漸進的に解決しようという政治的なビヘイビィアだと私は考えている。現実からより良い未来を希求する考え方・ビヘイビィアといってもよい。
保守の矜持とは?
保守は、イコール自由主義ではない。自由主義が起こした革命がフランス革命であり、アメリカ独立革命戦争である。しかし、ロシアなどごく特殊な国を除いて、社会主義・共産主義は保守でない。保守は主義・イズムではないので、理論ばっていない。人間と人間との関係や、地域や歴史や現実と人間の関係を大切にする考えである。
長い間自民党の国会議員として生きてきた私は、間違いなく保守であった。極めて俗っぽいいい方をすると、信義や義理や人情を大切にする生き方を大切にしてきた。わが国の保守は、そういうものを大切にしてきたし、自民党は主義・イズムではなくそのようなものを絆として政治的に結合した集団であった。公明党との連立は、保守政党として最低限守らなければならない信義や人情に悖るもの、と私は考えざるを得なかったのである。
政権にありつくために、また政権を維持するために、自由主義者としての誇りだけでなく保守としての矜持をも捨てた自民党に私は何の未練もなかった。というより、そのような政党に安穏と所属していることに私は政治的罪悪感すら感じずにはいられなかったのである。
<つづく>
それでは、また明日。