先進工業国の没落の必然性
12年01月09日
No.1531
今日まで、正月三が日と7日からの三連休だ。6日休みで、3日仕事。暦どおり休んた人にとっては、1月10日からが実質的な今年の仕事である。こういうことをいうと古い人間だと笑われるが、これで本当に済むんならば、苦労はない。日本が休んでいる間に、1ユーロが100円をあっさりと切ってしまった。世界経済は、激しく動いている。のんびりしている場合じゃないと思うのだが……。
元旦の永田町徒然草に書いておいたが、「今年は大変な年になる」と、私は思っている。どんな業種であれ、どんな立場の人でも、今年を無事に過ごすのは大変だと、覚悟しておいた方が良い。世界経済は、大混乱の時代に入った。わが政府は、シッカリとしている、信頼に足りるというならば話は別だが、素人目にも、わが国の政府が賢明な策をとっていると思っている人はいまい。だから、わが国がそれと無縁の筈はないのだ。
「世界経済の大混乱は、なぜ生じたのか」を論ずる力など、私にはない。しかし、資本主義経済の諸国は、資本の論理で動くしかないのだ。資本の論理の基本は、やはり『資本論』第一章「商品」を理解することなしに解明できないのではないか。世界に流通する商品の生産が、先進的工業国の独占から解放されたとき、先進的工業国の安逸な夢が吹き飛んでしまっうのは必然なのだ。
わが国も、先進的工業国だったのだ。わが国が発展途上的工業国に商品の生産を委ねたとき、わが国が世界第二の経済大国の地位を失うのは、そもそも必然だったのである。労働賃金が低廉なことは、商品の価格競争で圧倒的な優位性をもつ。それを凌駕する特許や特殊な技術をもつのは、きわめて至難の業である。これが工業的商品の運命であり、資本主義の原理である。
資本主義経済は、工業製品だけで成り立っている訳ではない。わが国でも「ハードからソフト」の時代に入ったといわれて久しい。工業製品は、ハード=物である。果たしてわが国は、工業製品に代わる「ソフト」を、国全体として築き上げてきたであろうか。そもそも「ソフト」とはいったい何であるかを、真剣に追求してきたであろうか。私がいつも指摘しているように、いまわが国に求められている「ソフト」について、多くの人々の関心はきわめて低いのである。
政治は「ソフトの最たるもの」のひとつだ。わが国の政治は、ご覧のとおり、見るも無残である。「国民から税金を取る」ことに“不退転の決意で臨む”といきり立っている、恐ろしい首相を戴いている国なのだ。「社会保障と税の一体改革」といえば、増税はあたかも良いことだと言わんばかりだ。それに騙されそうな国民も、多くいる。自由主義社会では、税をできるだけ少なくすることが基本だ。税は、国民の所得の自由な処分を妨げるからである。
世界経済は、間違いなく混乱する。わが国の経済も、どん底に引き落とされるであろう。そこから国民を守ってくれる政府など、残念ながら存在しない。無いなく尽くしの中で、私たちは生きていかなければならないのだ。その努力の中から、いま私たちが築き上げなければならないものが生まれる。必死の努力が必要なのだ。今年は、そのようなことについて書いていきたいと思っている。
それでは、また。