権力に処する術
09年11月05日
No.1335
最近永田町徒然草を書くことが重くなった。政権内部や民主党から伝わってくるニュースには、“それは良いぞ!!”という思われることが少ない。それより“あまりぞっとしないなぁー”と思われることが多いからだ。別に挫折感を覚える程の事じゃない。そもそも民主党や社民党や国民新党などに多くの人々は尊敬や畏怖の念など抱いていないであろう。「国民の生活が第一」ということで彼らは権力の座に就いたのであるから、国民の意思に反することなど実行できる筈がないからである。彼らもそれほど無知ではないし、傲慢でもないであろう。
本来ならば善良で人の良い彼らがやることに“それは良いぞ”と拍手喝采を送ることができず、かえって“あまりぞっとしないなぁー”と感ずる原因は奈辺(なへん)にあるのだろうか。それは、彼らが“権力に処する術”を知らないからではないのか。
権力に処する術という言葉を耳にしたことはあまりないと思う。この永田町徒然草では今日初めて使った言葉である。しかし、この間私の頭にずっと去来していた言葉であった。最近の鳩山内閣や民主党などの動向をみていると、どうもそういうことではないかとしか私には思われないのだ。
このヒントは、“富に処する術”にある。この言葉もあまり聞き慣れないと思うが、私の造語ではない。かつて宮沢喜一氏が使った言葉である。宮沢氏は「私たち日本人は貧しさに耐え、これを見事に克服した。そして世界が驚嘆するような豊かな国となった。私たち日本人は、貧しさにどう対処したら良いかは知っている。しかし、自分たちが手にしている富にどう対処したら良いのか、必ずしも十分に知らないのではないか」という文脈の中で“富に処する術”という言葉を使ったのである。確かバブルの真っ最中だったと思う。
民主党は長い間確かに“政権交代”を訴えてきた。そして念願の政権を手にした。政権を獲得した場合どういうことを行いたいか、それなりに勉強してきたようである。しかし、自公“合体”政権の権力について批判することと、実際に自分たちの権力をどう行使するのかは別の問題である。権力者は権力をどう行使するかも問われるが、権力を行使しないことにも責任を問われるのだ。要するに政権党はあらゆることに責任を問われるのである。政権党には、その覚悟が必要なのだ。
禅問答のような言い方であるが、これは重要なのである。それを解く鍵は「興一利不若除一害(一利を興すは一害を除くにしかず)」に尽きる、と私は思っている。このことは具体的問題に即して追々と述べることにしよう。民主党が知らないだけではなく、権力を手にした国民も“権力に処する術”にあまり慣れていないようである。マスコミも“権力に処する術”を知らないようだ。“おべんちゃら”だけがやけに目につく。見ていて吐き気を催すときすらある。
それでは、また。