カタカナ英語は曲者…!?
09年08月05日
No.1248
私は英語が苦手だった訳じゃない。英語は受験科目の中で一番の得意課目であった。大学2年の教養課程が終わると、学校の授業から英語課目は一切なくなった。昭和41年(1966)だった。法学部の学生だった私は、英語を勉強する必要がなくなった。以来“英語力”は年々落ちていった。語学などというものは、そんなものである。
34歳で私は国会議員になった。国会議員は役人を呼んでいろいろな問題について説明を聴くことがことができる。与党の国会議員の事務所には説明をしたいという役人がいっぱい訪れる。私も行政が行うことに関心があったので、時間が許す限りできるだけ会うようにしていた。“意外に”勉強熱心だったのである(笑)。昭和の終りから平成となった頃、役所のペーパーに急にカタカナ英語が多くなってきた。その中には、私の知らない英語も結構あった。
私はカタカナ英語が出てくると、必ず“どういう意味なんですか”と執拗に訊くことにしていた。日本語で正確に語れないことというのは、そもそも“曲者(くせもの)”なのである。カタカナ英語は、外国にある制度などを紹介する場合などに使われることが多い。しかし、どういうことをしたいのか明確な概念があるのであれば、できるだけ日本語で説明すべきだというのが私の考えだからである。カタカナ英語で語られることは要注意だ、と私はいつも思っている。
「(前略)日本の一部識者および大半のメディアは、マニフェストの意味を誤解している。マニフェストに相当する英単語は、manifestoとmanifestの2つある。前者は、マルクスが共産党宣言でも使ったように、政治的な宣言である。まさに、理想や思想を示し、人を鼓舞するのがマニフェストである。後者は、積荷目録である。
マニフェストの本場とされるイギリスの政治では、もちろん前者のマニフェストが発表される。マニフェストに書かれているのは物語であり、理想である。数値目標だの財源だのは、あまり強調されていない。日本の場合、政党の側も、マニフェストを論じる一部識者やメディアも、積荷目録を必死で論じているように思えてならない。マニフェストを批判する際にも、それがマニフェストを自称するに足る思想的な文書かどうかを論じるべきである。」
私が政治学者として評価・尊敬している北海道大学法学部教授の山口二郎氏の「無駄のない国?」という政治エッセーからの引用である。山口教授のいうことだから間違いはなかろう。他にも参考になることが書いてあるので、ぜひお読みいただきたい。しかし、その中にちょっと気になる文章があった。
「そのように考えるなら、民主党が叫ぶガソリン税の暫定税率の廃止や、高速道路の無料化という政策が、いかに時代に逆行するかは明らかである。50年に一度という政治大転換の重要な機会に、そんなしょぼい話を得意げに持ち込むなと、民主党のマニフェストに対しては、怒りで一杯である。」
この部分にはいささか異議がある。“そのように考えるなら”の山口教授の考えに私は同意するが、「ガソリン税の暫定税率の廃止」と「高速道路の無料化」を同列に捉え、「ガソリン税の暫定税率の廃止」を時代に逆行するというのはいかがなものか。自由主義政治の基本は、税である。理屈に合わないおかしな税は断固として排除するというのが、自由主義政治の歴史であり、沿革であった。 「興一利不若除一害」の真っ先の一害は、理屈に合わないおかしな税を改めることではないか。もっとも最大の一害は、自公“合体”政権を取り除くこと。もちろん、これは自明なことだが…。
それでは、また。