花は桜木、人は武士
09年07月02日
No.1214
「然るべき時に、然るべき判断を私が行う」と壊れた蓄音器(ちょっと古いか)のように繰り返す麻生首相の然るべき判断がこのようものだということが再びハッキリした。この人の頭は完全に擦り切れてきたようだ。語彙が乏しい。内容もお粗末だ。これは自公“合体”政権の面々全体に言えることだが……。
「何をなすべきか」が問題なのである。自公“合体”政権が政権をもっていることは疑いない事実である。しかし、そんなことはこの段階において、もうどうでもよいことなのである。これから数年間、誰が政権を担うかが問題なのである。自公“合体”政権の与党は引き続き政権を担当したいと思っていることは分かる。だが、そのためには選挙で過半数をとらなければならないのだ。
選挙で過半数を制するということは、選挙に勝つことである。選挙に勝つということは大変なのである。選挙の票というものは、獲れるものではない。基本的には与えてもらうものである。長い間、選挙というものに携わってきた者が辿り着いた率直な考えだ。私の諦観のようなものである。もちろん票を与えてもらうために基本的にやらなければならないことはある。
最低限やらなければならないことを実行しなければ、与えてもらえる票すら入ってこない。選挙準備とか選挙活動は、最低限やらなければならないことを一所懸命に実行しているだけなのである。選挙には特別な奇策などない。これをやれば絶対だというものがある訳じゃない。しかし、これだけは絶対にやってはいけないということはある。この鉄則を意外に平気で破る者がいる。そういう者が選挙に勝つことは難しい。でも例外もときには起こる。
選挙の洗礼を受けなければならない者がやってはいけないことは、悪行(あくぎょう)は避けることである。できるだけ善行を積むことである。基本的にはそれしかない。この数年間、数の驕りから自公“合体”政権は悪行の限りを尽くしてきた。この永田町徒然草はそれを告発し続けてきた。白川は過激なことをいうなぁ~、と思われてきた。しかし、同じような認識をもつ人が徐々に増えてきた。それは悪行の度合いが酷くなってきたからである。
しかし、総選挙の結果がどうなるかはやってみなければ判らない。ただ小手先の策を弄しても無駄であろう。東国原宮崎県知事などを持ち出そうというのは、小手先の策である。二匹目の泥鰌(どじょう)を狙っても、たぶんダメだろう。民主党のスキャンダル探しである。足利事件は、警察・検察への不信感を決定的に深めた。そもそも巨悪は自公“合体”政権の中にいる、と国民は思っているのだ。
度胸を決めて、潔く国民の審判を仰げば良いじゃないか。ダメだったら潔く野に下る。そして他日を期す。その覚悟がどうもできていないようだ。
“花は桜木、人は武士”という言葉には、潔さというニュアンスがあると思う。頂点に立つ者に日本人が求める器量ではないのか。麻生首相も自公“合体”政権もこの器量がないのだ。足掻けば足掻くほど国民の信を失っていくことに気が付かないのであろう…。
それでは、また。