来るべき総選挙は…(その1)
09年06月01日
No.1182
自公“合体”政権の絶体絶命の危機
遂に6月が来た。勢いに乗る鳩山民主党代表は1日も早く解散総選挙というが、そう簡単に解散という雰囲気はない。 今後どうなるかは分からない。これから私の書く情勢がどう変化するかは分からない。それは私が手を抜いてからではない。今回の戦い=解散総選挙がそれぞれにとっての最終決戦だからなのである。
政権交代を目指す民主党を中心とする野党、これを支持している国民にとっては、絶好のチャンスであることは間違いない。政権交代の可能性は十二分にある。
自公“合体”政権にとっては、絶体絶命のピンチなのである。政権の座から降りることは自民党が生き延びていけるかどうかの瀬戸際なのである。
平成5年夏、自民党が野党に転落した時、私は自民党の国会議員が右往左往する様を嫌というほど目撃した。長い間、政権党として君臨してきた者の威厳や誇りなど微塵もなかった。歴史が変わるとき、滅びていく権力者にそれなりの美学・パフォーマンスがあったことを多くの歴史小説などが教えている。自民党にはそんな美学の欠片(ルビ:かけら)もなかった。
自民党が野党に転落した時、無様を呈したのはその本質の表れであった。自民党は“政権党であることを唯一のレゾン・デートル”とする政党だったからである。政権党の甘い蜜に群がる有象無象が大多数であった。花に群がる蟲は、花が散れば飛び去っていく。
その自民党の中にあって、自由主義政党としての矜持を辛うじて持っていた者だけが、反転攻勢を試みた。そして11ヵ月後に自社さ政権という変則ではあったが、兎にも角にも政権党に戻したのである。
いまの自民党には、そのような矜持をもっている者が果たしているのだろうか。与党となった公明党には、いかなる矜持があるというのだろうか。魑魅魍魎には反転攻勢などできない。自公“合体”政権は絶体絶命の危機にある。だから、必死なのである。
理念で争われる選挙
現代の政治は、理念を中心として争われる。マニフェスト選挙を提唱する者もいるが、マニフェストなどというモノで政権を争った例を私は知らない。だいいち、マニフェストなるモノの全部を有権者が正しく理解することなど可能なのであろうか。
現代でも、選挙の時に予想も想定もできなかった問題や事態が多々生じる。そのような時、政府がどのように行動するかは非常に重要である。マニフェスト選挙の疑問点である。それに現代の選挙が“御利益(ごりやく)”の多寡を争って行われるというのも実態にも反している。
それにしても、選挙の際それぞれの政党は何かを掲げる。それはマニフェストと呼ばれるモノなどではない。それは理念なのだ、と私は考えている。
ちなみに英和辞典(Vista、三省堂)によれば、manifest【(1) (形容詞)明白である《堅苦しい言い方》 (2)(動詞)明らかにする、証明する《堅苦しい言い方》(3)(名詞)積み荷明細書】とある。いっぽう、manifesto【声明、宣言、声明書、宣言書】ともある。
御利益を求める選挙ならば宝船の積み荷を争う意味合いでmanifestが妥当のようである。manifestoならそんなに詳しく書く必要はない。理念が明白であれば良い。リベラルとか友愛は、政治的理念を立派に宣言している。「国民の生活が第一」も、国民の生活がズタズタに破壊されている現状では、野党の民主党が掲げる立派な理念・manifestoなのである。 <つづく>