ひとつの極限としての江戸文化
08年02月25日
No.718
政治家などというものはだいたいアバウトな存在である。私も例外ではない。だいたいが大雑把なのであるが、そんな私にもときどき拘(こだわ)ることがある。そしてそうなると例によって拘りすぎる癖がある。私がかなり長い間(高校生の頃から)拘っていることのひとつに、「日本人はなぜ肉食をしなかったのか」というものがある。私たちが小さい頃は本当に肉を食べれなかった。別に肉が嫌いという訳ではないが、私はそんなに肉を食べなくとも大丈夫だ。
私が長い間こだわって到達した(!?)結論は、「日本の国土で生産できる食料でできるだけ多くの国民が生きていくためには、できるだけ穀物から直接生活エネルギーを摂取することがいちばん効率が良い」ことを私たちの先祖は知っていたからだ。このことは私がいまさらここで説明しなくても科学的に立証されている。同じカロリーを豚肉から摂取する場合で7~8倍、牛肉では10数倍の穀物が必要だといわれている。最近みた番組では、牛や豚が出すゲップに含まれるメタンガスは二酸化炭素よりもはるかに温室効果があるガスだというのだ。私としては日本食にますます自信がもててくる(笑)。
洞爺湖サミットや地球温暖化問題が話題になるとき、日本の政治家や官僚が口にする言が“世界で最高の省エネ技術”である。私はわが国の省エネ技術が世界で最高であることも少々怪しい気がしてならない。もっと大切なことは、省エネ技術とは所詮エネルギーを発生させることを前提にそのエネルギー効率を問題にしているに過ぎないことである。しかし、いちばん大切なことは、そのエネルギーを発生させる必要がそもそも本当にあるのだろうかを考えてみることだ、と私は考えている。それはもう技術の問題ではない。私たちの WAY of life の問題である。例えば私は今年の冬からできるだけ厚着をするようにしている。これにより暖房はきわめて少なくて済むようになったことだけは確かである。
そうはいっても、冷房と違って暖房が全然ないと今年の冬のように寒いと実際には過ごせない。我が家には残念ながら炬燵(こたつ)がない。しかし、部屋全体を暖めるよりも、日本の寒さくらいならば炬燵がいちばん良いのではないだろうかという気がしてならない。それも電気ストーブでなく、練炭炬燵あたりがいちばん良いと思うのだ。炬燵はたぶん日本独特の暖房器具だと思う。こういうものをもっと大切にしたいものである。食べ物をまたもちだすが、世界的に日本食ブームだといわれている。しかし、外国で日本食というとだいたい“鮨”である。鮨は日本食であるが、私たちが毎日食べているものではない。私が日本食の代表選手だと思うのは、“肉ジャガ”と“温かいごはん”である。
こんなことを考えるようになってから、私は時代劇をみるとほっとするようになった。時代劇のシーンを見ているだけでなぜか心が和(なご)むのである。江戸時代の科学や文化など(文明といってもよいのかもしれない)は、鎖国の中で日本人が辿り着いた“ひとつの極限”のような気がしてならない。極限だから功罪半ばすると思う。しかし、罪をシッカリと認識しながら、功(優れたところ)を再評価することが大切だと考えているのである。私たちには世界に発信したい歴史があるような気がしてならない。日本の歴史をもっと深いところで勉強したいと思う。
それでは、また。