フォトエッセイ 即写寸言
立礼でお客を迎える二人の女性
入り口にいた麗しい女性の傍にあどけない少女も立礼でお客を迎えていた。非常に異国情緒をかき立てられる。平日の午後1時頃であった。少女は学校は大丈夫なのだろうか。
[大きな画像で見る]旅の記念に
今回の旅行は観光ではなかったのでこのような写真はあまりない。私も観光客気分でタイの女性たちと記念写真を撮る。
[大きな画像で見る]※カツヒコ、『戦場に架ける橋』に往く。
アユタヤはあまり農村部ではなかった。地方を見たいという私の願望は消化不良であった。そこで映画『戦場に架ける橋』で有名な鉄橋があるカンチャナブリに行くことにした。詳しくは、永田町徒然草No.737参照。
泰緬鉄道の鉄橋を臨む写真である。天候は晴れ。時刻は正午ころであった。本当はバンコクから鉄道で来るのが良かったようである。断崖絶壁の所に敷設された鉄道が見事とのこと。
[大きな画像で見る]○○川の川縁で
上の写真に写っている川縁で撮った写真。メコン川もチャオプラヤー川もそうだったが、東南アジアの河川は日本人には清流にはなかなか見えない。どうも藻のせいのようである。だから魚は成長が滅多矢鱈早いという。ところがこの川(名前を記憶していないのが残念である)は、非常にきれいな清流であった。こういう川を見ると私たちの心は急に落ち着く。
[大きな画像で見る]鉄橋のど真ん中で
泰緬鉄道の鉄橋のど真ん中で。日本人よりも白人の観光客の方が多かったのが意外であった。白人観光客の多くは、ヨーロッパからの人が多いという。かつて東南アジアの多くの国はヨーロッパ諸国の旧植民地だった。そんな関係なのであろうか。
[大きな画像で見る]待望の水田である。
カンチャナブリで待望の農村に立ち寄った。この辺の農村もずいぶん豊かになったという。まずは水田が一面に広がる光景を撮った。乾期であるので稲は植えていなかった。4月になればたぶん田植えが行われるのであろう。真ん中のビニール袋は鳥避けであろう。
[大きな画像で見る]水田の近くで一枚
水田の傍で撮ったもの。バナナの木が違えば、日本の水田風景と同じである。
[大きな画像で見る]※カツヒコ、アユタヤに行く。
とにかくバンコクの混雑と喧騒から離れ、もっと地方に行きたかったのでアユタヤに行くことにした。アユタヤはバンコクからチャオプラヤー川上流70キロくらいにある。自動車で2時間くらいで着いた。
アユタヤは1350年から1767年までの417年間、タイの首都があった。この写真はアユタヤ朝の王宮があったところで撮ったものである。現在の王宮と同じように、仏教的な遺跡と王宮の施設と思われる物が混在しているように思われた。木造の建物もあったと思われるが、礎石だけしかない。これは不思議なことではない。江戸城だって昔のものがそのまま残っているのは石垣だけだという。
[大きな画像で見る]首のない石仏
王宮内にある石仏は、このように首のないものが多くある。捨てられた王宮は荒れてしまい、盗掘や盗難で石仏の首がなくなったという。石仏全部では重すぎるので、頭部だけ持ち去ったらしい。
インドネシアのボロブドゥール遺跡を観たた時も、そこの石仏の頭部はすべて欠けていた。これはイスラム教徒に征服された時、宗教上の理由で破壊されたらしい。同じ首なし石仏でもこのように歴史がある。
[大きな画像で見る]あるワット(寺院)の石仏
タイではどこにいってもワット(寺院)がある。アユタヤ市内のあるワットに行った。このワットの石仏はこのように無事であった。黄色の袈裟というか衣というか腹当て(語彙不足!?)を着けている。それがなかなか新鮮であった。こうすると石仏にもぐんと気品がでてくる。日本のお地蔵さんの赤い腹当てとルーツは同じなのだろうか。
[大きな画像で見る]あるワットの境内
このワットにはかなり高い塔があった。そこは登れたので登った。最近は運動不足なので足が突っ張ってしまった。せっかく苦労して登ったのだから、塔の上から境内を撮った。ここにはバンコクの王宮にあったような前衛的(?)なオブジェはなかった。
[大きな画像で見る]旧日本人町跡
アユタヤの中心からかなり離れた所に旧日本人町跡がある。そこでの記念写真。
10年前に来た時にも、ここを訪れてた。その当時に比べ敷地内にいろいろな施設が作られており、多くの日本人観光客がいた。以前来たときにはそのようなものは殆どなかったとはっきりと記憶している。かなり広い旧日本人町跡地は、一面芝に覆われていた。タイの芝は私たちから見ると雑草のような感じがする。まさに“夏草や つわものどもの 夢の跡”という感がした。私にはその方が良かったような気がする。
最盛期には3000人の日本人がいたという。現地人や近隣諸国の従業員を加えると数千人が居住していたという。そこには首領がおり、1617年~1630年首領をしていたのが山田長政である。山田長政は商人というより王のけい警備隊長を務めたという。
徳川幕府が鎖国政策をとらなかったら、江戸時代にも多くの日本人がタイや東南アジアに渡来していたのではないか。そうすると日本もかなり変わっていたのではないか。私は“民族の移動”というものに特に関心をもっている。
※王宮の見学
タイ国では王室の存在は特別である。至るところに国王と女王の写真が掲げられている。とても現在の日本の比ではない。王室への信頼は絶大である。それは昨年のクーデターの時、余すところなく発揮された。しかし、タイ国は立憲君主制である。絶対君主制ではない。
そんな訳でとりあえず私は王宮をまず見学することにした。たった一人での見学である。前に来た時にも確か行った記憶がある。しかし、人に連れてこられたのでぜんぜん記憶はない。
王宮は王室の寺院(ワット)と宮殿からなる。宮殿は併設されているが、私が行ったのはこの寺院(ワット)の方である。そこにある金で作られた大きな塔である。どのような目的で作られた塔なのであるか分らない。こういうときにガイドがいないと不便である。しかし、そんなことをあまり気にせずにそこにあるものをそのまま受け容れて気軽にみるのもよいものである。
以下の5葉の写真をそのように見てもらえれば幸いである。紹介というほどのものではない。
[大きな画像で見る]金の尖塔
これは前の塔とは別の金の尖塔である。ガイドがいないので、どのような目的の尖塔なのかは分からないが、きっと前の尖塔とは建てられた時期と目的が違うのではないか。いずれにしても王宮の建物の中にこのような金でできた塔がかなりあった。もちろん金箔が貼り付けられているのであろうが、これらをみてヨーロッパから来た人たちは“黄金の国”と思ったのではないか。黄金の国 ─ ジパングは必ずしも日本だけではなかったのではないか。
[大きな画像で見る]前衛的なオブジェではないか
王宮の中にはいろいろな建物がある。基本的にはそれらは仏教的な建物なのであろうが、あちこちにこのような立像がある。見方によってはきわめて前衛的なオブジェではないか。このような立像も至る所にある。それは私たちのイメージでは仏教的ではない。明らかにヒンズー教的な立像である。インドの影響があるのではないか…。
[大きな画像で見る]白川勝彦の日々のアルバム
2003年第43回衆議院総選挙や2004年十日町市々長選挙のデジカメ写真記録です。
国会TV 政治ホットライン出演記事
ちょっと動きが感じられるTVからのキャプチャ画像群で、番組を再現しています。
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