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マスコミ市民   2007年8月号 No.463

シリーズ昭和憲法とは!?   憲法改正問題講座 10

改憲派を右翼反動と呼ぶ理由

白川  勝彦  (元衆議院議員・弁護士)

憲法改正をめぐる“問題”とは?

この連載も今回で10回目となった。そろそろ終りに差しかかると同時にいよいよ本題に入る。この連載のタイトルは、憲法講座でもなければ、憲法問題講座でもない。憲法“改正問題”講座としたのは、憲法改正に関する政治的動向やそれに纏(まつ)わる諸問題を論じたいと思ったからである。

本当は、そのことだけを論じてもよかったのだが、それでは議論が抽象的になるし、憲法改正問題の本質を理解できないと考えたからである。これまで昭和憲法の三大原則といわれる基本的人権について3回、平和主義について2回、国民主権について2回ずつ論じてきた。これ以外にも昭和憲法に論ずるべき点はあるが、それは憲法学者に委ねる。本連載の目的は、あくまでも憲法改正をめぐる諸問題について論ずることである。

昭和憲法は、その制定の過程から政治に翻弄されてきた。また昭和憲法は、成立直後からこれを改正しようという動きに苛まされてきた。いわゆる改憲勢力の台頭である。一方これに反対する勢力は、護憲運動を展開してきた。以後、前者を改憲派といい、後者を護憲派という。戦後政治は改憲派と護憲派の戦いの歴史といっても過言ではない。

憲法はそもそも政治的ドキュメントであるから、政治の舞台の中心に据えられることは止むを得ないが、願わくばその中身をめぐって争うものであって欲しい。しかし、わが国の憲法をめぐる議論は中身をめぐるものではなく、成立の過程や契機をめぐっての争いであった。それは現在においても基本的には同じである。

安倍内閣は、改憲を内閣の政治的課題とすると闡明した初めての内閣である。しかし、昭和憲法の三大原則は尊重するともいっている。憲法の三大原則に争いのない者同士が、なぜ憲法改正をめぐって激しい争いをしなければならないのか疑問である。この単純な疑問を解明しようとすると、憲法“改正問題”の本質が明らかになるのである。

昭和憲法と真正面に向きあう必要性

これから憲法改正問題を論ずるに当たり、まず確認しておきたいことがある。それは、わが国の改憲派も昭和憲法そのものを憲法として認めていることである。外国の歴史や政争などをみると、憲法の存在自体を認めない勢力と憲法を守ろうという勢力との戦いもかなりあるからである。やはり日本民族は、和を重んずる民族なのかもしれない。ごく当たり前のことのようだが、このことは非常に大切なことでなのである。憲法改正を議論するにあたり、成文の憲法に基づいた議論が一応できるということである。憲法そのもの存在を認めない勢力との戦いの場合、そのような議論がそもそもできないのである。

改憲派の主張のひとつに昭和憲法は“押付けられた”憲法であるというものがある。これらの人たちも押付けられた憲法であるといっても、無効とはいっていないのである。昭和憲法を有効な憲法と認めている意味は大きい。従って、押付け論を主張する人々も、憲法96条の改正手続によらなければ昭和憲法を改正することはできないと考えているのである。もしそうでなかったら、私の想像だがいまごろとんでもない憲法が支配する国になっていたのではないかと思っているのである。

もっとも改憲的な憲法解釈で、相当におかしくなってしまった問題はかなりある。しかし、成文の憲法がある限り、解釈改憲でやれることには限界がある。平和主義を論じた際に、第9条を自民党新憲法草案のように改正した場合どうなるか、かなり詳細に述べた。このような変更は、解釈改憲では到底できない。

このような前提を確認した場合、私がもっとも強調したいのは昭和憲法に正面から対峙するということである。昭和憲法を素直に解釈するという態度である。わが国の政治家は、果たして憲法と真正面に向き合い、憲法の理想を実社会で活かそうとしてきたかということである。行政は、そのような努力をしてきたであろうか。憲法の最後の守護神である裁判所は、昭和憲法の理想を堅持して争いの場でこれを活かしてきただろうか。私は政治・行政・司法という場に身を置く機会に恵まれたが、私の体験に基づいていうといずれも否といいたくなる。その原因は、意外に深いところにある。

国民にとって押付けられた憲法のか!?

憲法改正の動きが具体的になったのは、サンフランシスコ講和条約の締結によりわが国が独立し、連合国軍最高総司令官の占領が終ったころからであった。それは、改憲派の大きな理由である“押付けられた憲法”という主張も、押付けた張本人であるGHQが現存するときにはさすがにいえなかったからであろう。わが国の右翼反動の特質のひとつは、時の権力に迎合的であるというのが私の持論である。

憲法改正論議の一貫したテーマである憲法9条が存在する限り、自衛隊(いちばん最初は警察予備隊)の創設を認めるということは最大の難関であった。しかし、これとて改憲派の努力で実現したというよりも、マッカーサー総司令官の吉田首相への指令で行われたのである。GHQが軍事占領下ということで行った指令には、レッドパージなどのように反昭和憲法的なものもかなりあるが、GHQが昭和憲法を敵視していたとは思われない。それは昭和憲法の制定に深く関わった者としての経緯もあろう。また当時のアメリカや国際社会の高揚した民主主義の風潮がそれを許さなかったこともある。

しかし、憲法制定過程や憲法成立直後において、これを非難したり悪し様にいう者があまりいなかったのは、昭和憲法を多くの国民が良い憲法と受けとめていたからである。昭和憲法を制定した衆議院は、20歳以上のすべての男女に選挙権が与えられたわが国ではじめての普通選挙で選ばれた。憲法改正要綱も舞台裏はいろいろあったが、国民には自然な形で政府から提示されたし、憲法を議論した国会では自由な議論が行われてた。

憲法制定の過程でいちばん大切なのは、その手続きと内容である。手続きについては、現在でも年齢制限を20歳とするか18歳とするかくらいしか問題はないであろう。内容についても、基本的人権の尊重・平和主義・国民主権は当然であり、当時の国民がこれを歓迎・支持したのは十分に理解できる。

“押付けられた”か否かは、その手続きと内容において誰がそのように感じたであろう。少なくとも昭和憲法は、その両面において当時の大多数の国民にとって押付けられたものではなかったのである。

“国体の護持”派にとっての秩序

昭和憲法を“押付けられた”と思ったのは、どういう人たちだったのであろうか。それについては、昭和憲法の三大原則を考察する中で述べてきたつもりである。

いちばん“押付けられた”と思ったのは、“国体の護持”ということに拘(こだわ)った人たちであろう。国体の護持ということが、わが国の独立ということであったとしたら、もっと多くの人々が昭和憲法を押付けられたと思ったであろう。

しかし、国体の護持というのは、そのようなものではなかった。国体の護持に拘った人たちがいう“国体”とは、狂信的かつ絶対主義的神権天皇制であった。軍事的ファシズムと一体となった偏狭な国粋主義であった。それが昭和(1925年)になってから現出したわが国の政治体制であった。

このような国体の護持に利益をもちかつ拘った人々とは、こうした体制の支配層であり思想的にも経済的にもこれに組み込まれた人々であった。こういう人々が少なかったとはいわないが、国民全体からみたらほんの一握りの人たちにすぎない。

支配体制とは、ひとつの秩序を形成する者たちの集合体である。国家の支配体制は、それなりの秩序を作っている。ひとつの秩序を形成しているからこそ、国家の支配体制ということができるのである。ある秩序から新しい秩序に移行する過程では、どのような集団であれ混乱や動揺や不安が生ずるものである。そうした過程で旧秩序への郷愁が必ず生まれるのは、歴史が教えるところである。革命に対し揺り戻しが起きるのは、そのようなものに起因している。

しかし、反革命が成功する例は、きわめて稀である。革命を成し遂げた者は、革命を完遂するしか安寧の道はないのである。明治憲法と明らかにことなる原理原則で国家を運営していこうと決めた以上、昭和憲法の三大原則に従って新しい秩序を作っていくしかないのである。それは、三大原則を深化させることによってはじめて可能なのである。

右翼反動と呼ぶ所以

私は法律家というより、政治家として昭和憲法と付き合ってきた。そんな関係で、基本的人権についても社会の秩序を作る上でそれがどのような機能をはたすのかと考えざるを得なかった。権力者の立場にたてば、国民の基本的人権ほど厄介なものはない。しかし、自由主義的秩序を理想とする者にとっては、基本的人権に基づく国民の自由闊達な活動がなければ、内実の豊富な秩序は期待できない。これは市場経済を例に考えると多くの人々が理解できるのであるが、政治や社会や文化となるとなかなか理解されないのである。

私が籍をおいた自民党には、改憲派と称される人々が多くいた。この人たちの言動をみていると、改憲派の物の考え方がよく分かる。反面教師として私の考えを深化するのに無駄ではなかった。改憲派の人たちが問題だという現象は、私にとってもひとつの問題だという認識はある。

しかし、自由主義的な手法で秩序を作ろうという場合、その多くは避けられない問題だということが多い。そもそもそれは“問題”なのではなく、不可避的な現象というケースが多い。仮に問題だとしても、それを抑圧するのではなく、それを発酵させて芳醇な物を作っていくしかないと考えるかで、意見が決定的に分かれるのである。これはひとつのイデオロギーの対立である。だから、私はイデオロギーの対立の時代は終焉したという考えはとらない。

私が改憲派の人々を右翼反動と呼ぶのは、この人たちが現実に起こる問題を解決する方法として、明治憲法的な秩序に回帰しようとするからである。語弊があるとするならば、明治憲法的な秩序に頼ろうとするからである。だがそれは詮無いことなのである。無駄なことなのである。自由を保障する自由主義社会で現出する問題は、自由主義的な手法で解決するしか道はないのである。これが反動と呼ぶ所以である。

右翼というのは、彼らの主張に狂信的かつ絶対主義的神権天皇制や軍事的ファシズムと一体となった偏狭な国粋主義が随所に感じられるからである。戦前、右翼と呼ばれた人々がこのような支配体制を作る上で“戦闘的”役割を果たしたからである。テロもこの人たちによって引き起こされた。

自由主義的な秩序の困難性

安倍首相を筆頭とする右翼反動の改憲の動きを注意深くみていると、彼らのルーツと思考は憲法制定の過程で国体の護持に拘った人々と相通じるものがある。こういうと彼らから反論がなされるであろう。また実際に彼らが理想とする秩序は同じではないかもしれない。彼らにそれほど確たるものがあるとも思われない。

しかし、私が自信をもっていえることは、右翼反動には自由主義者はいないということである。ましてや自由主義的な秩序を理想としていないことは確かであり、また自由主義的な秩序を作る能力などないということである。自由主義的な秩序を作るためには、寛容と忍耐と博愛の精神が不可欠である。人類にとって自由主義的な秩序を作るということは、まだまだ未達成なテーマなのかもしれない。

このことは、右翼反動だけの問題ではない。護憲派と呼ばれる人たちの中にも自由主義的な秩序を作るということに対する理解が不十分と思われる人々もかなりいる。それはある意味では当然なのであるが、こうした人々が中心となって展開してきたのが戦後民主主義であり、憲法闘争であった。改憲派には、両院における国会議員の3分の2という厚い壁がある。護憲派には、これからいよいよ右翼反動と本格的な憲法闘争をやっていく上で、理論的な武装を改めてしなければならないという課題があると私は考えている。それを論ずることが、憲法改正をめぐる問題なのである。次号以降でそのことを詳しく論じることとする。

<白川勝彦略歴>
1945(昭和20)年7月22日生まれ。東京大学法学部卒業。34歳のとき衆議院議員初当選。以来当選6回。自治大臣・国家公安委員長、自民党総務局長などを歴任。

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