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 FORUM21   2007年4月15日 通巻124号

創価学会党化した自民党 ─ 7

理想や理念を求めようとしない俗物的体質

白川  勝彦  (元衆議院議員)

創価学会の第四の問題点

創価学会ウォッチャーたちが、創価学会の第四の問題点として挙げたのは次のようなことであった。

「言行不一致、品性欠如、近視眼的思考、現世至上主義、金権、数の論理、公明党票を使っての政治支配」

このような特質は、どのような集団にも大なり小なりあることである。しかし、宗教団体としては全面的に否定できないとしても理念としては許されることではなく、問題点とされても仕方ないだろう。宗教というものは、人間の人知を超えるもので人間を救済しようとする営為だからである。

一方、近代自由主義は、人間がお互いに証明することができる言葉や事実を使いながらこの世の中に生起する諸問題を解決しようとする政治手法である。しかし、近代自由主義は、人間がそれだけでは必ずしも充足されることはなく、また社会運営も上手くいかないことを経験上知っている。だから、近代自由主義は、思想・良心・信教の自由をもっとも根源的な基本的人権として認め、その役割を宗教などに期待している。

近代自由主義の憲法である日本国憲法は、

「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」 「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」

と規定(第19、20条)し、この基本的人権は

「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(第97条)

と宣言している。

宗教団体の「現世至上主義、金権、数の論理、票を使っての政治支配」は、宗教の根本的な役割を否定するものであり、宗教そのものの否定にもなりかねない。

人はパンのみにて生きるにあらず

一方、政党は、「人間がお互いに証明することができる言葉や事実を使いながらこの世の中に生起する諸問題を解決しようとする政治」の世界における存在である。従って、「現世至上主義、金権、数の論理、票を使っての政治支配」は、必ずしも否定できないし、品性を欠如することがなければ許される。これらは、いずれも言葉や数値を使って証明できることである。

自民党がまさにそういう特質をもった政党であることは、広く知られているところであり、私がここでくどくどと論証する必要はないだろう。しかし、仮にそのような特質をもった政党だとしても、許容される限度というものがある。それを超えた場合には、有権者は政党としてふさわしくないということで厳しい批判をする。自民党は、スキャンダルにより国民の厳しい批判を受けてきたが、平成 年に発覚した金丸信自民党副総裁に対する金権批判により、野党に転落した。

政党は、現世利益至上主義で構わないし、数の論理を用いることも仕方ないし、政治資金を豊富にもつことも必ずしも否定されない。しかし、それにはその時代に許容される限度を守り、品性をもたなければならないということである。

私がここでいう“品性”には、理想とか理念ということも含まれる。なぜならば「人はパンのみにて生きるにあらず」だからである。現実は現実としても、国家や社会がどのような未来に向かわなければならないのかということである。一つひとつは小さくともそれが理想に向かっての一里塚であることを証明する努力を政党はしなければならない。それを実感できるとき、その国家や社会には理想や希望があることになる。しかし、ハッキリさせておかなければならないことは、その理想や理念は検証可能なものであることである。

改革の中身が問題

いきなり難しいことから書きはじめた。その理由は、ここで述べた創価学会の問題点と自民党の特質に共通するものとは何であるかを明らかにするためである。

創価学会の問題点は、宗教団体の本旨に悖るということである。最近の自民党には、政党としての本旨に悖ることが多々見受けられる。その共通したところは、それぞれが宗教団体や政党の理想や理念を放擲していることであり、自民党のこの問題点を「理想や理念を求めようとしない俗物的体質」と呼ぶこととする。

自民党などは、そもそも理想や理念をもたない俗物的な政党だという人は多いであろう。そんなことは、自民党の国会議員として20年近く過ごした者であるから嫌というほど知っている。しかし、俗物的な政党ということは、ある意味では検証可能であるということであり、必ずしも否定されることでない。

均衡ある国土の建設、格差の少ない安定した社会、福祉社会の建設、所得倍増論、専守防衛・平和国家の実現などなど。これらは、いずれも理想や理念として正しいし、いっている内容もだいたい分る。そして大切なことは、一定の数値や概念で検証可能である。

それに対して、小泉前首相が使った「構造改革」という言葉は、理想や理念を語っているようだが、果たして検証可能であろうか。どのような構造をどのように改革するのかが明らかにされなければ、いったい何のための改革か判らない。「聖域なき改革」といっても、いったい何を聖域というのか明らかにしなければ、実は何をいっているのか判らないのである。

小泉氏の最大の改革は、郵政民営化であった。その主張はきわめて具体的だが、なぜ郵政民営化が改革の本丸なのだろうか。

“聖域”である財務省を守るための改革

わが国の政治にとって、官僚政治を克服することは戦後のもっとも大きな課題である。官僚政治とは、わが国の政策のほとんどが官僚たちによって進められてきたことである。わが国に政策力をもつ政党や政治家が育っていない場合は、それも仕方がないことである。しかし、国民主権が憲法で明確に規定され、多くの政党が生まれて、曲がりなりにも政党政治の体をなしてからすでに半世紀余が過ぎた。

官僚の企画・立案する行政が、官僚のための行政となることは避けることのできない現象である。実際に行政を動かす官僚や官僚機構を国民の代表がコントロールすること、それができなくてもせめて官僚による官僚のための行政をチェックすることを、国民は求めている。細かい理屈は分らなくても、国民はその実態を知っているし、その改革を望んでいることは確かだ。

小泉氏が行政改革の本丸とした郵政民営化は、このような行政改革からみたら、国民の期待に沿うものだったのだろうか。小泉氏がタブーへの挑戦とした郵政民営化や道路特定財源の一般財源化は、以前から大蔵省(現財務省)が執拗に狙っていたことである。

政府系金融機関の一元化や郵貯・簡保の民営化は、金融機関の支配を望んでいる大蔵省にとって悲願であった。大蔵省の悲願ではあっても、国民の悲願ではなかった。道路公団の民営化や特別会計の整理・廃止は、わが国の行政をすべて掌握しようという大蔵省のあくなき権限増殖から出ているものである。

逆説的にいえば、官僚による官僚のための行政機構の頂点に君臨しているのが、大蔵省であったし名前は変わっても財務省である。このことは、単純な事実であるし、このことを否定する者はまずいないであろう。

そうだとしたら、行政改革を本気でやろうとした場合、財務省と対決し、財務省の不当な権限や振舞いを是正しなければならないのは理の当然のことである。しかし、肝心の小泉氏は典型的な大蔵族である。何らの哲学や理念もない小泉氏は大蔵省・財務省のいうことがこの世でいちばん正しいと思っている政治家なである。小泉氏にとって財務省は“聖域”なのである。小泉氏のいう「聖域なき改革」は、彼にとっての“聖域”である財務省を守るための改革であったのだ。

真の理想や理念がなかった証左

改革という言葉を多用したからといって、理想や理念があるというものではない。あのヒットラーのナチスの正式名称は、国家社会主義ドイツ労働者党であった。ナチスが行ったことが社会主義や労働者党と無縁だったことを考えればこのことは明らかであろう。

小泉氏が掲げた「構造改革」や「聖域なき改革」は、理想や理念を追求しているようであるが、実は検証不可能な言葉を標榜しているの過ぎないのだ。検証不能な言葉の羅列こそ、近代自由主義がもっとも嫌うことである。小泉氏は改革政権を装っていたが、改革なるものの実態は明確ではなかったし、検証も批判もできないものだった。近代政党が避けなければならないことであると同時にその本旨に悖る行為なのである。

人間がお互いに証明することができる言葉や事実を使いながら具体的に改革をいうのでなければ、その改革は無意味であるだけでなく危険でもある。改革という言葉自体は誰も否定できないし、改革というスローガンは理想や理念をもっているように見えるからである。小泉氏がどのような国家や社会を実現しようとしたのかは、遂に明らかにされることなく、荒廃した現実だけを残して退場した。実現しようとする国家や社会の具体像を示すことできなかったということは、真の理想や理念がなかったという証左なのである。

「美しい国、日本」の実現?

小泉氏の事実上の後継指名を受けた安倍首相が掲げた政権のスローガンは、「美しき国づくり」である。“美しい”ということに誰も反対はしないが、何が美しいかということは政治的に検証不能か非常に困難な概念である。政党や政治家としては、このような検証不能で、多義的な言葉を用いることはできるだけ避けなければならないことなのである。

「私は、日本を、21世紀の国際社会において新たな模範となる国にしたい、と考えます。

そのためには、終戦後の焼け跡から出発して、先輩方が築け上げてきた輝かしい戦後の日本の成功モデルに安住してはなりません。憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的な枠組みの多くが、21世紀の時代の大きな変化についていけなくなっていることは、もはや明らかです。我々が直面している様々な変化は、私が生まれ育った時代、すなわち、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が三種の神器としもてはやされていた時代にはおよそ想像もつかなかったものばかりです。

今こそ、これらの戦後レジームを、原点にさかのぼって大胆に見直し、新たな船出をすべきときが来ています。“美しい国、日本”の実現に向けて、次の50年、100年の時代の荒波に耐えうる新たな国家像を描いていくことこそが私の使命であります。(後略)」

ハッキリとした理想や理念がない自民党

これは安倍首相の最初の施政方針演説の一部である。「終戦後の焼け跡から出発して、先輩方が築け上げてきた輝かしい戦後の日本の成功モデル」の原動力となったのが、「憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的な枠組み」であったことは否定できない事実であろう。誰が安住しているというのだ。その事実を踏まえながら、常に改良工夫を加えながらわが国は発展してきたのだし、今後ともそうするしかない。

「これらの戦後レジームを、原点にさかのぼって大胆に見直し、新たな船出」をすることは結構だが、目的港が「21世紀の国際社会において新たな模範となる国」とか「美しい国、日本」というのでは、いったい何をやりたいのかサッパリ判らない。安倍氏がやりたいことは、「憲法を頂点とした、行政システム、教育、経済、雇用、国と地方の関係、外交・安全保障などの基本的な枠組み」を取っ払らうことなのではないか。戦後の60余年を取っ払い、戦前と連続性をもった“美しい国”を作ることが、安倍首相の理想なのだろう。

安倍首相の祖父である岸信介氏には、栄光の戦前があった。だから岸氏がそういうことを望むことは仕方がないとしても、その時代に生まれてもいなかった安倍氏がそのようなことを望むというのは、アナクロニズムを通り越している。家訓墨守の暗愚な亡霊を見ている気がするのは、私だけであろうか。

安倍氏は“愛国心”や“自虐史観”なるものを問題にしている。安倍氏には“愛国心”の強要により侵略戦争に参加させられ、数千万のアジア人を殺戮し、最後には自らの命も絶たざるを得なかった数百万の日本人の血の叫びに想いを馳せる素養がないのであろう。

歴史認識を欠いたリーダーは、危険である。同じように具体的で検証可能な目標を提示しないリーダーも危険である。そのようなリーダーを戴く政党には、ハッキリとした理想や理念がないといっても過言ではない。自民党は、いまやそのような政党なのである。

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