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FORUM21 2007年2月15日 通巻120号
創価学会党化した自民党-3
排他独善、高じて批判者を抹殺する自民党(その2)
白川 勝彦 (元衆議院議員)
まんざらでもない自分勝手党
排他独善、高じて批判者を抹殺する体質は、創価学会のもっとも非民主的で反社会的な問題点として多くの識者が指摘するところである。このような体質となった自民党すなわち創価学会党化した自民党について、前号に引き続いて私が実際に体験したことなどをも踏まえてもさらに詳しくみることとする。
私は1975年(昭和50年)に衆議院選挙に立候補することを決意し、そのための政治活動を始めた。国政に参加することを目指しているのであるから、いかなる政党に所属して政治活動をするかということは曖昧にはできない問題であった。私は躊躇することなく自分が所属したい政党は自民党だと表明した。
その理由は極めてはっきりしていた。その当時存在していた政党の中で、自由主義を党の基本的な理念としていた政党は自民党しかなかったからである。日本社会党は社会主義、日本共産党は共産主義、民社党は民主社会主義、公明党は人間性社会主義をそれぞれ党の基本理念として掲げていた。自由主義者を自認する私としては、少なくともこれらの党に所属することは理屈としてできなかった。
自民党が自由主義を掲げていたからといって、自由主義政党であるかどうかは別問題である。私も18歳の時から政治活動をそれなりにやっていたので、それほど単純にみていたわけではない。例えばナチスの正式名称は、国家社会主義ドイツ労働者党である。
しかし、自由主義と明らかに異なる政治理念を掲げる政党に所属することはできない。また自民党が自由と民主という看板を掲げている以上、自由主義そのものを否定することはできないだろうと考えたからである。そして私の政治活動の目的は、日本に真の自由主義政党を作ることだった。真の自由主義政党がなければ、わが国の自由主義を本当に発展させることも、根付かせることもできないと考えたからである。
これは基本的には間違いではなかった。自民党は自由主義者が集まって作っている政党などという高尚なものでは決してなかった。自由主義などを全然理解できない人々もけっこういた。しかし、立派な自由主義者もいた。私の政治の恩師である大平正芳氏などは、戦後におけるもっとも毅然とした自由主義者であった。こうした優れた自由主義者が一派(宏池会)をなすことができたのも自民党であった。
自民党は自分勝手党などと揶揄されることもあった。20数年間自民党に籍をおき、党本部の重要な役員もいくつかやったが、この表現はそれなりに自民党の本質をいい当てているように思う。しかし、それほど捨てたものでもないと思うこともあった。
ひとつは、戦後のわが国の政権を担当し、日本を自由で豊かな国したことである。自由主義や民主主義とまったく相反することをやっていたのではこういう成果をあげることはできない。ふたつめは、私のようなかなり激しい自由主義者でも苦労がなかった訳ではないが、それなりに活動することができることであった。
自由主義政党とタブー
自由主義社会であるかどうかは、いかなる主義や主張でも自由であることである。自由主義社会では、たとえ自由主義を否定する考えといえどもその自由を認めるということである。自由な社会では、そのような考えが尊敬はされることはないであろうが……。
自由主義政党は、本来は自由主義者が集まって作り、自由主義の理念に基づき党の運営や政策が遂行されることが理想である。自民党はそれほど立派な自由主義政党でなかったことは確かである。自由かつ民主的に運営されてきたかどうかは別にして、少数意見を排除したり批判者を抹殺するようなことはなかった。
自民党は自主憲法制定すなわち憲法改正を党是とするといわれている。本当はこのことも怪しいのだが、現在の憲法を改正する必要は見出せないと公然と主張していた私を排斥したり除名したりすることはなかった。私がそのような主張をすることは何の支障もなかったし、その主張の故に党内の地位が不安定になったり不利益となるようなことはなかった。
自由主義政党で、社会主義を基本理念とすべきと主張することなどは政党の性格からしてありえないが、それ以外は本来自由でなければならない。私にいわせれば自由主義に反するような主張をする者もけっこういたがそれ故に除名されることはなかったが、それと同じように私のような者も除名されるようなこともなかった。田中角栄氏が党内の3分の1近くの議員を集め大派閥を形成していたときでも、田中政治を批判することはできたし、現にそのような動きもあった。
自由主義政党においては、タブーは許されない。自由主義の政治思想には、侵すことのできない絶対的な存在としての神も仏も国王も指導者もいない。そのすべてが批判の対象となる。その批判に堪え得るもののみが、政治の世界に君臨するできる。「偽りの絶対的な存在」は、批判を嫌う。これを弾圧しようとする。その最も激しい形態が、批判者の抹殺である。
エゲツない落選工作
創価学会党の本家である公明党の批判者抹殺は有名である。公明党の要職にあった者でも例外ではない。かつて公明党委員長であった竹入義勝氏や委員長・書記長であった矢野洵(?)也氏に対して、創価学会・公明党は社会的に抹殺すべくその機関紙などを使って罵詈雑言を浴びせている。少しでも池田大作氏を批判すれば、誰であっても容赦呵責ないのだ。
私も自民党から同じようなことをされた。最初のそれは2000年(平成12年)の総選挙の時である。私は新潟6区から自民党公認候補として立候補した。私は自民党が公明党と連立した後も、党内有志と共に「政教分離を貫く会」を設立するなどしてこの連立に反対してきた。だから公明党が私を推薦しないのは構わないし、私も創価学会や公明党の推薦を受けようとは思わなかった。創価学会・公明党は、新潟6区で民主党候補を推薦し、熱心に応援した。
こうなると話はちょっと違ってくる。総選挙というのは、与党対野党の政権を賭けた戦いなのである。党の執行部としては、自民党の候補である私を勝たせなければならないのである。連立を組んでいる公明党に対して少なくとも野党候補を推薦・応援することくらいは止めてもらうようにするのが執行部の最低限の仕事である。しかし、当時の自民党執行部は、公明党と一緒になって私を落選させることに汲々としていた。
新潟6区はコスタリカ方式で、かつての私のライバルであった自民党議員が比例区に回り、小選挙区から立候補する私を支援する番だった。その議員の地盤だったところは、その議員の力で私の票を出すことが勝敗を決することになる。党執行部はその議員が選挙区に入ってそのような活動をさせないようにした。私が落選したのは、その議員の地盤とする地域で思うような票が出なかったことに直接の原因がある。
私は当時秘書の不祥事で苦しい選挙戦を余儀なくされていたが、それでも11万4,404票を獲得した。惜敗率は95.5%であった。常識的な比例名簿を作っていれば私は文句なく復活当選していたが、訳の分らない比例名簿を作って惜敗率41.0%の者が当選するようにされていた。こういうエゲツないことをした張本人が、当時の野中広務自民党幹事長だった。彼こそが自民党を公明党に売り渡した「売党分子」である。
市長選に幹事長のお達しが…
2006年5月、私は郷里の十日町市の市長選挙に立候補した。国政に関する私の意見や想いはいろいろあったが、私の意見は結局容れられなかったのだからそれはすべておいて、将に蕪せんとしている郷里のために働こうというのが私の決意であった。私の後援会青年部から強い要請を受けての決断であった。
私は国政の問題を十日町市にもちこむ気など毛頭なかった。私のことをいろいろと心配してくれる先輩同僚が私のために支援してくれた。私としてはこういう先輩同僚から応援に十日町市に来てもらいたいと思ってその段取りを取ろうとしたら、当時の武部自民党幹事長から白川の応援に行くことは罷りならないとの通達が自民党議員に流された。
十日町市長選挙において、自民党は誰も公認も推薦もしていないので、党規違反の問題は起きない。しかも人口6万ちょっとの市の市長選である。こんな選挙に党の幹事長がわざわざお達しを出すなどということは、かつての自民党では考えられなかった。
創価学会・公明党がこの市長選にタレントや国会議員を投入し、白川にだけ入れるなと活動したと聞いた。前記のお達しにもかかわらず私の応援に来るという同僚の議員のところに、創価学会の県長が電話をかけてきて応援に行くのを見合わせるようにいったという。そのために応援にこれなくなった同僚が何人もいた。
私は当時こんなことを何とも思わなかったし、大騒ぎもしなかった。またそんなことが私が選挙に敗れた原因とも思っていない。いま考えてみると批判者を抹殺せよという体質の現れだったと思うので、あえて記した次第である。
加藤派の殲滅の仕方
加藤紘一衆議院議員も基本的には公明党との連立に慎重かつ批判的であった。それは1999年の自民党総裁選に立候補した時の加藤氏の主張をみればよく分る。その加藤氏が2000年(平成12年)11月いわゆる「加藤の乱」を起こした。その是非や敗因を分析することはこの際省略する。 問題は加藤の乱後の自民党の対応である。自民党は加藤派に属していた古賀誠衆議院議員を幹事長に抜擢した。この人事の狙いは、加藤派を殲滅するため以外の何物でもなかった。加藤派は見事にズタズタにされた。党内で大きな存在であった加藤派は、10数人の小派閥に転落させられた。自民党は幹事長という要職を加藤派殲滅のために使ったのだ。
加藤氏は、大平正芳氏直系のリベラル派であった。リベラル派が全体主義的体質を強くもっている公明党との連立に批判的になるのはやむを得ないであろう。これが公明党との連立志向派には気に入らなかったのだろう。公明党からの要請があったのかもしれない。そして古賀氏自身が野中氏と並んで自民党を公明党に売り渡した売党分子そのものである。
加藤派の殲滅は、自民党リベラル派の殲滅でもあった。自民党には、政治的母体としてのリベラル派はいまや存在しない。加藤氏は2000年の総裁選では小泉純一郎氏に協力したが、小泉氏とその周辺は加藤氏を決して許していなかった。加藤氏が秘書の脱税問題で議員辞職に陥れられたのも、彼らの思惑が背後にあると推測している。
傍若無人な態度と物のいい方
最近テレビはやたらと政治家を出演させる。中には政治家にちょん髷までかぶらせる物まである。かぶらせるテレビ局も問題だが、かぶる方もかぶる方だ。それはそれとして、これらの番組を見て感じることは、自民党や公明党の政治家の態度と物のいい方である。
戦前に大政翼賛会というものがあった。大政翼賛会の推薦を受けて議員となった者を翼賛議員と呼んだ。私は翼賛議員などもちろん知らないが、多分いまの自公合体政権の政治家のような態度と物のいい方をしていたのではないかと思うのである。自公合体政権の政治家にとって、小泉改革や日米同盟は天皇の政治(大政)と同じように神聖不可侵のものらしい。
最近になって小泉改革の綻びが指摘されるようになった。小泉氏が主張したことは、アメリカのネオコンと呼ばれる人たちと同じであって、自由主義の思想の中でも少数意見に過ぎないのである。
日米同盟の世界観にいたっては、わが国の保守政治の中でも全体として認知されるものではなかった。ほんの一部の保守反動と呼ばれる人たちの主張でしかなかった。同盟関係などという表現は、普通は軍事などを考える際に使われる言葉である。軍事だけを考える場合、ものごとを批判的に考えないのがその特徴である。国全体の外交や安全保障を考えるにあたっては、いろいろな視点からものごとを考えなければならない。批判的な観点も当然に必要である。
ところが自公合体政権の政治家には、このような視点がまったくないのである。小泉改革や日米同盟に批判的なことをいう野党の政治家に対して、論拠を示さないで小馬鹿にしたような態度で反撃する。タブーを認めない非国民に対するような態度と物言いなのである。排他独善は、党外の人にも及んでいるのである。そしてこの排他独善が高じて、いずれ国民を抹殺する刃となるであろう。