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政治家は官僚とどう向き合うべきか

●脱官僚政治を訴えた民主党が第一党になった

写真:新潟5区で戦っていたころの白川─2003年撮影昨年のいまごろ、私は政権交代を実現するために新潟5区で戦っておりました。この総選挙、もちろん民主党の公認候補として社民党とも力を合わせて戦うつもりでした。民主党新潟県連は満場一致で私を推薦候補としました。残念ながら民主党本部がどういう理由か明らかではありませんが結局公認しなかったので、分りにくい選挙になってしまいました。しかし、私の目的意識はハッキリしていましたし、私の戦いは少なくとも新潟県における民主党の大きな躍進には貢献できたと思っています。

その時の民主党の代表は菅直人氏でした。その選挙における民主党のキャッチフレーズは「脱官僚政治」でした。このスローガンを掲げた民主党が比例票では第一党になりました。総選挙において脱官僚政治を第一のスローガンに掲げた政党が現われたのは、日本の政治において初めてのことでしたし、その政党が第一党になったことは画期的な意義があることだと私は思います。総選挙は、政党が掲げるスローガンや政策だけで有権者が投票する訳ではありません。いろいろな要素があるわけですが、しかし、その選挙においてそれぞれの政党が掲げるスローガンや政策はやはり有権者の大きな判断材料であることは間違いないことです。特に昨年の総選挙はマニフェスト選挙といわれました。ですから、いままで以上に各政党が掲げたスローガンや政策は重視されたはずです。

民主党が掲げた脱官僚政治というスローガン・政策がどのような内容なのか、民主党もあまり具体的に述べませんでしたし、有権者がどれだけこのスローガンの意味するところを突き詰めて考えたかは実際にこの選挙戦を戦った者として過大評価することは疑問だと思います。ですから脱官僚政治というスローガンというよりキャッチフレーズのようなものだったと感ずるのです。しかし、公務員が作る労働組合の大半が民主党を支持しているのですが、少なくともこうした組合からも異論は出ませんでした。もちろん一般の有権者から異論が出ませんでしたし、このスローガンを評価して投票した人も、結構おられたのではないか思います。

わが国は役人天国だというのが、多くの国民の共通認識です。総理大臣や知事や市町村長を自分たちが選挙で選んでいるのに、どうして役人天国はいっこうに変わらないのか。選挙の時は、こうしたことを考えて投票はするのですが、官僚政治を打破するといった候補者も当選するとすぐ官僚に取り込まれていく。こうしたことに苛立(いらだち)や失望をもっている多くの有権者がいるのです。ですから、野党第一党である民主党が「脱官僚政治」ということを第一のスローガンに掲げたことに大きな関心をもち、これを支持したのだと思います。こうした雰囲気を察知して、自民党は公務員が作る労働組合が支持する民主党が脱官僚政治や行政改革ができる訳がないと大反論を浴びせました。だからといって、自民党ならば官僚政治を打破してみせるとはいいませんでした。それはさすがに恥ずかしくていえなかったのでしょう。

私は、脱官僚政治こそ民主政治の根本問題だと思っています。政治家は、国民・県民・市民の代表として国・地方の官僚組織のトップとなるのです。その政治家が何をするのか、政治家は官僚組織とどう向き合うのか、これは日本だけでなく民主主義国の永遠のテーマです。しかし、強力な官僚組織があり、また民主主義の歴史の浅いわが国ではこのテーマは、特に政治の中心的課題だと私は信じております。この小論は、拙著「自民党を倒せば日本は良くなる」の記述に大幅な加筆を加えたものです。

●なぜ官僚の評判はこうも悪いのか

わが国には、国家公務員が110万人、地方公務員が320万人もいます。この人たちにとって、官僚=官僚組織すなわち自分たちが諸悪の元凶だと言われると面食らう人が多いでしょう。

地方公務員でつくる自治労(全日本自治団体労働組合)という労働組合は、数ある労働組合のなかで、人数でも組織力でも日本で一番強力な労働組合の一つでしょう。自治労は、政治的にはもちろん民主党を支持しています。したがって、あれだけ官僚批判をする民主党の菅代表も、悪いのは霞ヶ関にいる自民党と結びついた一部の高級官僚であり、それ以外の公務員はまじめで善良なよく働く人たちだと言ういわざるを得ませんでした。

しかし、多くの国民はそう思っているでしょうか? 決してそう思っていないと思います。第一、多くの国民には霞ヶ関の高級官僚などと接触する機会は、ほとんどないのです。多くの国民が付き合うのは、また付き合わざるを得ないのは、地方公務員であり、高級官僚などとは呼ばれない国の出先機関の公務員なのです。

国民は、こういう人たちを見て、また必要に迫られて付き合ってみたうえで、公務員(役人)というものに対し一つの認識をもっているのです。どういう認識をもっているかは、おいおい書きます。ただ、それは決して「まじめで善良なよく働く人たち」などという認識でないことだけは、確かです。国民は公務員の皆さんをもっと厳しく見ています。どうかこのことだけは忘れないで下さい。もしこの小論を目にされた公務員の方がいたら、私がこれから書くことを最後まで我慢して読んでもらいたいと思います。

なぜ、こうも公務員(役人)の評判は悪いのでしょうか。それは、そもそも自由主義社会においては、自由でありたいと願う多くの国民にとって、最初から権力(役所)というのは本質的に好ましいものではなく、むしろ、敵対するものであるからです。多くの国民にとって、本当にあって助かると思える役所は、いったいどの役所でしょうか。すぐには思い当たりません。

仮にそういう役所があったとしましょう。また、なければ困る役所も確かにあります。たとえば福祉の仕事を行っている役所とか、治安をあずかる警察や検察などを、まったく否定する国民はいないでしょう。しかし、その役所はボランタリーな奉仕的な組織ではないのです。国民の税金でまかなっている組織なのです。ですから、相当のことをやってくれて当たり前、その仕事ぶりがぞんざいであったり、十分でなかったりすれば、国民が悪印象をもつのは当然ではないでしょうか。多くの公務員(役人)には、この基本的な認識がないのです。

●公務員はパブリック・サーバント

公務員を英語でいうと“Public Servant”です。Servant、つまり公僕なのです。わが憲法では「全体の奉仕者」(第15条)と呼んでいます。公務員は、奉仕者でなければならないのです。やらなければならないことをやるだけでは、残念ながら合格点はもらえないのです。相手から見て、いい仕事をしてもらった、助かった、いい気持になれたという仕事をしなければならないのです。外国などでは、そういう場合、その気持を表すためにチップを渡すのですが、公務員の場合はもちろん、それを受け取ってはいけません。受け取った公務員も渡した国民も、贈収賄になってしまいます。これは、いまや国際的に共通したルールです。公務員は、国民に対して行政サービスをするのが仕事です。ですからその基本は、一般のサービスの仕事とそんなに変わりはないのです。それは理想論だとか、あまりにも厳しすぎると言う人もいるでしょうが、これが、民主主義社会における公務員に関する原理・原則なのです。

明治憲法下では、国家公務員は官吏と呼ばれていました。そして、官吏は主権者である天皇の代理人であり、使用人でした。ですから、国民に感謝される必要もなかったし、国民も奉仕など求めはしませんでした。官吏(地方公務員のことは吏員といいました)すなわち役人は威張ってもよかったのです。そして、明治憲法下の役人は実際に威張っていましたし、恐れられていました。

現在の憲法では、国民が主権者です。主権者である国民は、いま政治家をボロクソに言っています。国会議員も地方議員もみんな公務員です。だから、ボロクソに言ってもいいのです。そして、ダメだと思ったら選挙で落とす、すなわちクビにしていいのです。公務員の任免は、国民の固有の権利であるとされているからです(憲法15条)。

しかし、公務員(役人)のことをボロクソに言う国民は多いのですが、政治家以外の公務員について国民は任免の権利を直接もっていません。ですから、一般の公務員にとっては国民がどう言おうが、クビになることはないのです。ただ一つの例外は、最高裁判所の判事だけです。国民は投票によって罷免することはできるのですが、これが実際に機能しているとは思えませんし、実際に罷免された最高裁判所判事はおりません。普通の会社の場合、従業員の仕事ぶりやサービスが悪ければ、最後はその会社は潰れるでしょう。でも、公務員が勤める役所というところは決して潰れることがないのです。

今日のように厳しい経済環境のなかで、リストラで雇用の不安を余儀なくされている一般の国民から見たら、「役人天国」と言われる状態に対しては、さらに厳しい指摘と批判がなされるでしょう。このことを公務員の皆さんは、正面から真摯に受け止めなければならないと思います。

●自己増殖してきた官僚組織

日本の公務員の数は、実は諸外国に比べて決して多くはありません。人口1000人当たりイギリスは81.4人、フランスは96.7人、アメリカは74.6人であるのに対し、日本の公務員の数は38.2人です。諸外国の公務員に対する認識・評価がどのようなものかは詳しくは知りませんが、わが国の公務員がもつ問題点は、実は根本的なところにあると私は思っています。

新しい憲法により、行政のあり方──官僚組織の使命は革命的に変わったのに、公務員(役人)の意識や実態はほとんど変わらなかったのではないかと、私は思います。変わったのは言葉遣いくらいなものではないでしょうか。天皇に代わって官僚たちの使用者となった内閣総理大臣や各省庁の大臣たち、各地方自治体(1955年ごろまでは全国に一万近くありましたが、現在は市町村合併の結果3,300となりました。いま全国的に進んでいる市町村合併によりその数は半分くらいになるでしょう)の首長たちには、残念ながら、使用者になった自覚も官僚組織を使いこなせる能力もありませんでした。

人間にとって一番辛く難しいのは、自己を改革することです。ですから、国においても地方においても、官僚たちが行政を自分たちの思いどおりにやってきたのだと思います。そして福祉社会の到来を機に、官僚たちは行政を肥大化させ、自己増殖をしてきました。

高度成長時代には、その負担は国民にとってそんなに重いものではありませんでしたが、安定成長そして今日のような不況下においては、その負担は国民にとって非常に重いものとなっています。いろんなことを行政にやらせるのは実は簡単なことであり、また手っ取り早いのですが、それには経費がかかることを、国民は忘れてはなりません。また、行政にやらせることは、サービスとしても決して質の高いものは期待できないことに、国民はそろそろ気がつかなければなりません。

●日本の官僚は本当にそんなに優秀なのか?

どこの国でも、官僚組織というのは権威的であり、保守的であり、非自由主義的なものです。しかし、わが国の場合は、絶対主義的な天皇制の使用人として明治以後育ってきたということと、日本という国が自由主義社会としてまだ未熟なことと相まって、その傾向は救いがたいほど強いのが現状です。

日本という国家・社会を自由なものにするためには、現在の官僚組織を一度全部解体するくらいの革命をしなければ、この弊害を除去するなどということは不可能に近いことです。私は戦後ずっと政権党だった自民党にいて、また、大臣や政務次官を務めるなかで、官僚組織というものや、官僚と呼ばれる人間の生き方を見てきました。中央の官僚たちの権限拡大に対する強欲さ、自分たちの権限が侵されそうになったときの常軌を逸した「醜い」と表現しても決して差し支えのない闘争を、嫌というほど見てきました。地方の官僚たちだって同じだろうと私は思っています。

日本の官僚たちに自己改革を求めるなどということは、木に登って魚を求めることと同じでしょう。本来はそれではいけないのですが……。だから、私は1979年に国会に出た当初は相当のものだと感じましたが、しばらくするうちに、日本の官僚が優秀だなどと思わなくなりました。日本の官僚は優秀だ、だから日本は大丈夫だ、などというのは間違いだということです。もし、日本の官僚たちが本当に優秀ならば、今日のような閉塞感に満ちあふれた日本を決してつくらなかったでしょう。そもそも、自己改革できない人間が優秀であるはずがありません。

●官僚のコントロールは政治家の責任である

わが国の官僚組織が、極めて権威的であり、保守的であり、非自由主義的になってしまった責任は誰にあるのでしょうか。それは、官僚組織のトップにいる政治家たちの責任です。国の官僚組織の場合ならば、総理大臣を筆頭とする各省庁の大臣であり、地方自治体の官僚組織ならば、選挙で選ばれた首長です。大きかろうが小さかろうが、国民すなわち主権者の代表として官僚を使用する直接の任務についた政治家には、国民に代わってその任務をまっとうしなければならない責任があるのです。

国の場合について言えば、自民党にその最大の責任があると言えるでしょう。なぜなら、わが国の内閣は、議院内閣制だからです。政権をとるのは、自民党としてとるのであり、その代表として自民党の総裁が内閣総理大臣となり、各省庁に大臣が送り込まれていくからです。

自民党には、各省庁に対応する部会と呼ばれる組織があります。たとえば、かつては建設省関係のことを議論する建設部会、郵政省関係のことを議論する通信部会、厚生省関係のことを議論する社会部会……。ですから、本来、自民党が本当に意欲をもった政党ならば、各部会ごとにそれぞれの省庁をどのようにコントロールする必要があるのかを絶えず議論し、戦略をもっていなければならないのです。しかし、自民党にはそのような意欲も能力もありませんでした。

●官僚機構を変えるとすべてが良くなる

官僚機構──官僚の意識・仕事のやり方を変えるということは、日本のあらゆる分野の大変革を伴うことになるでしょう。そのくらい日本の官僚たちは、あらゆる分野に貪欲に食い込んでいますし、官僚的というのは間違いなく一つの「日本的現象」です。

だから、官僚の皆さんには少しきつくても、諸悪の元凶は官僚機構にあるといっても過言ではないのです。官僚が善意でやっていることも、自由主義という少し大きな視点に立ってみると、わが国の閉塞感をつくっている大きな原因になっていることが多いのです。

私は、明治以来わが国の本当の主権者は、官僚(役人)だったのではないかと思っています。もちろん、明治の初めごろには民主主義という仕組みさえなかったのですから、仕方がないといえば仕方ありません。そして、官僚がやってきたことが全部が全部間違っていたなどと言う気もありません。

しかし、自由主義社会になったときから、また自由主義社会の発展を真剣に考えれば、官僚ー特に日本の官僚は、どちらかというとその大きな阻害物になるのだということを、官僚自身が自覚しなければならないし、国民も官僚をそのように認識しなければならないということです。

情報公開ということが非常に大切だと言われ出し、これに熱心に取り組むボランティア活動が盛んになってきたのは、この表れだと思いますし、いい傾向だと私は思っています。しかし、官僚組織こそ日本で最も長い伝統と経験をもつ組織です。組織という点では定評のある共産党であろうが、創価学会であろうが、とても比べものにならない組織なのです。しかも、政治権力そのものですから、権限とお金を持っています。普通の市民が簡単にこれに太刀打ちできるなどと考えたら、とんでもないことになります。だから、この官僚組織を変えるということは、政治そのものなのです。

政党は、この意識を持たなくてはなりません。長年政権政党であると言って威張っている自民党に、この官僚組織に対抗する意欲もなければ能力もないことは、すでに述べました。自民党は長年にわたり政権政党であったし、自民党のなかに官僚出身の政治家が多いために、他の政党に比べれば政権党らしく振る舞うのに慣れてはいます。しかし、国民が求める官僚機構を変えてほしいという面では、あまりにも癒着しすぎているために、問題意識もなければこれを変える能力もないのです。

●官僚組織を変えるのは簡単なこと

そんなに強い官僚組織を変えることなどできるのだろうか、という不安や疑問が出てきても不思議ではありません。しかし、その点は大丈夫です。官僚機構というのは組織中の組織です。ですから、トップの言うことは絶対なのです。国民は官僚組織のトップを選ぶ権利をもっています。そして、そのトップが官僚機構を変えようとすれば、極めて簡単に変えることができるのです。

このことは、長野県知事の田中康夫氏が、土木部長がなんと言おうが「ダム建設を中止する」と言えばどうにもならないのと同じです。長野県の官僚組織では、県知事が絶対的な権限をもっているからです。そして、国の官僚組織では、各省大臣が絶対的な権限をもっているのです。官僚が何と言おうが、大臣が決定してしまえば官僚はそれに従わざるを得ないのです。このことは、私が自治大臣時代にやったことでも明らかです。

これは、大臣が偉いからとかという理由ではないのです。法律上、大臣にはそれだけの権限が与えられているからです。自民党のなかにいて、何百人もの大臣を見てきました。威張る大臣は嫌というほど見ましたが、国民から与えられた権限を国民のために使う大臣を見ることは、ほとんどできませんでした。

ですから、私は自信をもって「自民党に政権担当能力など、ない」と言えるのです。ましてや、公明党やかつての保守党(結局は自民党に吸収されましたが)から出ている大臣に、政権担当能力などあるなどとはとうてい思えません。大臣になってただ舞い上がっているだけです。この人たちが、さも与党というのは大変なんだとか言っているのをテレビなどで見ると、本当に笑いたくなります。国民も、もう、こういう田舎芝居に騙されないようにしなければなりません。

●国民に奉仕する官僚組織をつくる

ですから、政党には、官僚政治を変える意識と意欲と能力が求められますが、それはそんなに難しいことではありません。むしろ「官僚政治を変える、官僚機構を変える、行政改革を進める」という演説をしなければ、国政の選挙は戦えないというのが現状です。

しかし、官僚組織を変える能力は、そんなに簡単にもてるものではないと考える国民も多くいると思います。実際に多くの政治家が期待を裏切ってきたからでしょう。ですから、それは一面の真実だとは思います。でも、私はそんなに難しくは考えていません。

一つは、官僚たちがやってきたことが、結果としてうまくいっていないからです。たとえば、年金政策などはそのいい例です。旧厚生省の失政といってもいいでしょう。最近の社会保険庁の不祥事は、これを一層明らかにしました。政治は結果責任ですから、官僚たちも責任を取らなければならないのです。もう一つは、これまで官僚のやってきたことを変えようとした政治家が苦労したのは、国民の側にある種の官僚信仰があったからです。でも、もうこれは完全になくなりました。

官僚の仕事、官僚のやり方に一番腹を立てているのは、国民です。ですから、官僚組織や官僚的な仕事のやり方を変えることを、主権者である国民が今度は支持してくれるということです。一時的には、官僚がサボタージュすることもあるでしょう。しかし、主権者である国民に逆らうことは、官僚といえどもできないのです。

確かに、日本という大きな国を運営するには、情報や知識も必要です。しかし最近では、民間にも非常に立派なシンクタンクもできてきて、この国の運営に必要な情報や知識は、決して官僚だけが持っている時代ではなくなりました。ですから、政党や政治家が官僚機構を変革することはできるのです。要は、政党や政治家の意欲と能力の問題なのです。ですから、大丈夫なのです。

これだけ言っても官僚組織を変えることなどできないという人は、もうどうしようもありません。そんなに官僚の(しもべ)でいたいのなら、官僚の給料を払いながら、本来ならば自分の僕にしかすぎない官僚の言いなりになるという、お人好しの人生を送られればいいと思います。そういう生き方がいいという人の自由を守るのも、私たち自由主義者の信念ですから。

最後に、官僚組織のなかにも「現在のような官僚組織ではダメだ、官僚の生き方ではダメだ」と思っている、それこそ本当に優秀な官僚もいるということも言っておかなければなりません。ただ、現在では、このような本当に優秀な官僚は、 (うと)んじられ冷や飯を食わされているのが実情です。調子のいい、世渡りが上手なゴマすりが、官僚の世界で幅を利かせているのです。

国民に奉仕する行政をやろう、そういう官僚機構をつくろうという政治家が官僚組織のトップに就けば、こういう優秀で意欲のある官僚が、官僚組織のリーダーとなるでしょう。国民に奉仕する官僚機構をつくるということは、日本の官僚が真に優秀ならば、本来は官僚自らがやらなければならないことなのです。そのような有能な官僚も多くいますから、官僚組織を国民に奉仕するものにすることは、そのトップに人を得ることができれば本当はそんなに難しいことではないと私は思っています。それだけに官僚機構のトップとなる政治家―ー総理大臣・各省庁の大臣・都道府県知事・市町村長の責任は大きいのです。

●官僚組織を変えると、なぜ日本が変わるのか?

なぜ官僚組織を変えると日本が変わるのでしょうか。たとえば、産業界の方々は日々の経済活動のなかで、官僚がいかに入念に巧妙かつ執拗に産業活動に介入し、利益を得、かつそれを守っているかを、よくご存知だと思います。そして、官僚のこうした介入が自由な経済活動を阻害し、その結果今日のような閉塞感がある状態にしてしまったことを、肌で感じておられるはずです。

自由主義者で何としても官僚になりたいという人は、あまりいないでしょう。

私が勉強(?)した東大法学部というところは、そもそも官僚養成機関としてつくられた学部です。ですから、大学を卒業すると中央省庁に入る人が掃いて捨てるほどいましたが、私は、ただの一度も官僚になろうという気は起きませんでした。学生のころから自由を愛し、奔放に生きてきた私には、官僚職は性にあいませんでしたし、憧れの対象でもありませんでした。

官僚には、自由主義社会のダイナミズムがわからないのです。官僚というのは、太古の昔から秩序というのは自分たちがつくるものだと素朴に信じているのです。自由主義の政治思想とは、そういうものの考えを脱却したところから出発しているのです。ですから、官僚機構そのものが国民から見たら敵対物と見られ、思われているのだと言ったのです。本来、自由であるべきところに官僚がいるだけで、自由な雰囲気が失われ、ダイナミズムが損なわれていくことを、官僚は知らなければなりません。

日本のあらゆる分野が官僚に依存しているなどと言う気はまったくありません。行政などにまったく依存せす伸び伸びとやって大きな成果をあげている分野があることも知っています。でも、そういう分野を探すことの方が難しいと言ってもいいのではないでしょうか。とにかく日本の官僚は、貪欲かつ執拗に官僚組織の権限を拡大し、官僚があるゆる分野に食い込むように仕向けてきました。また官尊民卑の風潮は依然と強く、国民や業界の中に、これを引き入れる傾向があったことも事実です。

たとえば、ボランティアやNPO(非営利組織)の世界にまで、官僚組織は介入してきています。これからは福祉・医療・教育・環境などの分野におけるボランティア・NPO活動を育成することにより、この分野に強くある行政依存体質を改めることで行政の負担を軽減し、そのことによって行政改革や財政再建を行なうことが大切であるばかりか、危機的な財政事情の下では、それを否応なくやっていかなければならなくなるのです。しかし、NPOの法人資格は関係省庁が与えることになっています。官僚組織はNPOまでも支配下に置こうとしているのです。NPOの法人資格を与えるかどうかなどということこそ、長い間ボランティア活動をしてきたNPO団体に、その事務をしてもらえばいいのにと、私は考えています。

官僚組織を変えれば、日本のさまざまな分野が音をたてて変わり、それぞれの分野に自由な雰囲気が出てきて、企業や団体や国民の自由闊達な活動が生まれ、それぞれの分野で21世紀に求められているものが必ずや生まれるはずです。また、それを信じて、多少の混乱があってもじっと待つというのが、自由主義社会の発展の道すじなのです。

いまは、国であろうが都道府県であろうが、市町村であろうが、とにかく、既成の官僚組織と官僚的なやり方を、革命的に変革していかなければなりません。革命的変革には、多少の混乱はつきものです。でも、混乱をもたらすことがあったとしても、官僚組織の改革と官僚的行政の変革はどうしてもやらなければならないのです。現在の官僚主導の行政をやっていたのでは、国も地方自治体も財政的に破綻するからです。それだけに、官僚機構のトップにすわる政治家の責任は大きいのです。

私が学生時代に愛読した本の一つが、ロマン・ロランの『魅せられたる魂』でした。そのなかにある一節で全編を貫くテーマは、「混乱を通じて調和を」ということでした。私に深い影響を与えた一冊の古典です。混乱を怖れていたのでは、新しいことは何もできません。いまの小泉首相みたいに破壊するだけで、一体何を創りたいのか明らかにせず、国民に希望や勇気を与えない改革は不毛です。しかし、高い理想をもち、その道筋と最終目標を明らかにし、官僚政治と果敢に戦い、官僚的やり方を変え官僚組織を改革する政治家を、多くの国民が待望しています。大多数の国民は、そのような政治家が行なう変革の過程で多少の混乱があったとしても理解を示すでしょうし、協力を惜しまないと私は確信しています。

出でよ、勇気ある政治家!

白川勝彦

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