まあ、ちょっとマジメなタイトルはさておいて、私の正月の帰省の時の話から始めます。
私の実家は新潟県なのですが、たまたま、出身校である県立長岡高校の部活の同窓生たちと飲む機会がありました。正月の三箇日というと、私のように故郷に帰省して、こうやって一杯やる人で、ふだんは閑散としているJR長岡駅周辺の街も賑わいます。
そして、飲み会もお開きになり、時計の針も夜の12時にさしかかろうとする道すがら、雪がふりしきる中を、1人の若者がアコースティック(フォーク)ギターを片手に必死に歌を歌っていました。最近、流行りの「ストリートミュージシャン」っやつでしょうか。
別にこうしたストリートミュージシャンは、新宿や渋谷、池袋、または横浜といった都心のターミナル周辺には、たくさんいるので、最近では別に珍しくも何ともないのですが、わずか人口十数万人の一地方都市で、それも正月の深夜に、凍えるような雪の吹きすさぶ中で、立ち止まって聴く人もほとんどいないのに、それでも必死にメッセージを発し続けている1人の若者に、ふと、胸を打たれ、新鮮な驚きを感じました。
もちろん、私が高校時代を過ごした1980年代初頭には考えられないことでしたし、少なくとも、一昨年の正月に帰省したときは、そんな光景は見られませんでした。そして、こうした時代の変化の背景に、もし、何かが存在するとしたなら、それは何なんだろうかということを、それからしばらくぼんやりと考えていました。
私が大学を卒業し、最初の就職先である毎日新聞で記者に採用された1988(昭和63)年は、まだ、バブルがようやく膨らみかけていたころで、いまや死語に等しい「年功序列」とか「終身雇用」という言葉が生きていました。詳しくは拙著『「新聞記者」卒業─オレがブンヤを二度辞めたワケ』(第三書館、1500円+税
)の中で述べていますが、その時代はまだ日本の経済にもゆとりがあったので、年がら年中、経営危機説が囁かれているあの毎日新聞ですら、100人を越える新卒を採用していましたし、そういう時代背景であるがゆえに、私のようにあまり深くモノを考えずに、大学時代はおねえちゃんのケツを追いかけ回して遊び呆け、適当に「A」の成績を揃えているようないい加減な人間ですら、何とか新聞社にもぐり込むことができたわけです。
しかし、昨今の不況を見ていると、私のころのようなノー天気な余裕はありません。そもそも、大学に入った瞬間にダブルスクール通いを余儀なくされ、大学3年の秋には、もう、就職戦線が始まるという状況を聞くと、何だかいまの学生は気の毒だなあ、という気がします。そして、そうまでして、日本の企業に就職したいのかなあと、つくづく思います。
もし、自分がいま、大学生だったら、たぶん“大新聞”など受験していませんし、外資系のベンチャー企業か、自分で会社を興しているでしょう。で、もし、高校生だったら、たぶん日本の大学には進学しておらず、宇多田ヒカルの後を追いかけてNYのコロンビア大学を目指すか、もしくは、ストリートに出て、ギターを片手に何か自分の思いを歌に託して発していると思うのです。冒頭で紹介した、正月の深夜の地方都市で、雪の降る中でギターを弾いている姿は、もしかしたら、「私」だったかもしれないのです。
戦後日本は、高度経済成長の中で、“会社本位主義”が確立され、「安定した収入」と引き換えに「組織への埋没」を要求されました。「寄らば大樹の陰」といえば、居心地も良さそうですが、「安定」の中には、えてして「抑圧」が潜むものです。
しかし、いくら会社に滅私奉公を強要されても、毎年給料は上がっていって、退職金もがっぽり貰えて、老後は悠々と年金生活という人生設計が描ければ、多少の不満にも耐えるでしょうが、1990年初頭のバブル崩壊を機に、日本の経済は坂を転げ落ちるように悪化し、それが回復の兆しを見せることなく現在に至っているのは、承知の通りです。
このように、経済という下部構造が大きく打撃を受ける中で、日本人の意識も確実に変わってきていますが、その決定打となったのは、自分の意識の中では、97年11月に世界中を駆けめぐった山一証券の自主廃業のニュースでした。
そのとき、既に私は二度目の新聞社である東京新聞を退職し、フリーの身になっていましたが、少なくとも、私が学生時代に就職活動をした頃は、銀行・証券といえば、就職の花形で、成績がよくで、優秀な人間がこぞって入社していきました。「そこに入れば、人生は一生安泰」という“幻想”が生きていたわけですから。
特に山一には、私の親しかった大学時代の友人が入社していたこともあり、その自主廃業のニュースを旅先のパリで聴いた私は、驚いたのはもちろんですが、それまで自分の心の中に築き上げられた何かが、パーンと壊れてしまったような気がしました。何だかうまく言葉では表現できませんが、あまり遠くない先のところで、「時代の裂け目」が広がっているような思いに囚われました。
98年夏の参院選での自民党惨敗を機に、自・自・公路線が顕在化してくるのが99年に入ってからです。その自・自・公で、コウモリ(=創価学会・公明党)が見事に寝返り、あの新ガイドラインに始まり、盗聴法、国旗・国歌法、国民総背番号制が一気に成立してしまったわけですが、その背景を考えるときに、忘れてはならないのが、日本経済の崩壊だと思います。
国民の中でも鋭敏な人は既に気がついていますが、これら一連の法律は、「戦時体制」を念頭に置いた「治安維持法」の復活を目指しているといってもよいと思います。戦前の日本の歴史を見てもわかると思いますが、国家が戦争を仕掛ける時には、必ず批判意見を抹殺しなければならないため、「言論弾圧」をセットにもってきます。
その証拠が、ある大蔵官僚が「600兆円も借金がある政府がカネを返す方法は、これまで人類史上、人為的なインフレか戦争しかない」と言い切っていることです。
つまり、国家権力の中枢部には、戦争をしたくてしょうがない人たちが必ずいます。こうした時代状況と照らし合わせてみれば、自・自・公(自・公・保)の背後にあるものが、少しずつではありますが、だんだんと透けて見えてくるのではないでしょうか。
戦後の日本を振り返るとき、大きなターニングポイントとなったのは、日米安保改定の成立を道連れに首相を辞任した岸信介の後釜に、「所得倍増」をスローガンとした池田勇人が就任し、高度経済成長を現実のものとしたことでしょう。
自分の中では、自民党政治の総括というのはまだはっきりとはできていないのですが、少なくとも、戦後の自民党の政治潮流を見ていくとき、大きく「国権派」「利権派」「リベラル派」という三つの流れがあり、こうした勢力が激しく絡み合う中で、「経済成長」という果実を、国民にもたらしてきたのだと思います。
そして、自民党政治家の中では“利権派の大物”と目されている田中角栄ではありますが、彼自身は「下部構造のところから日本の、日本人の自立を目指す」という、戦後のデモクラシーの中から生まれてきた保守主義者としての志は最後まであったと思いますし、現在の野中広務や亀井静香と違って、保守政治家のプライドを持って「創価学会・公明党=池田大作」と対峙し、角栄は、これを使い切ったと私は思います。
もともと、「自民党」と「創価学会・公明党=池田大作」との腐れ縁は、田中角栄に始まったといってもいいと思います。
実は池田大作は、佐藤栄作の1965年12月27日の日記にその名前が初めて出てくるように、もともとは佐藤自身が池田大作とのパイプがあったにもかかわらず、敢えて田中角栄を“公明党・創価学会担当”という鉄砲玉としてぶつけたことに始まります。
それは「毒をもって毒を制する」という、「人事の佐藤」ならではの鑑識眼があったのも事実でしょうが、それ以上に、池田大作という“肉食獣”を使いこなせる人材は、自民党広しといえども、角栄以外にいなかったのだと思います。
「創価学会のカルト性」ということについては、項を改めて詳しく述べますが、「カルト」とは、一言でいえば、「宗教の仮面をかぶった全体主義」のことです。
そして、角栄は池田大作の本質を「法華経を唱えるヒットラー」だとはっきり看破しています。
そして、角栄のすごいところは、その権謀術数です。取材をすればするほど、驚くべきほどの学会サイドとの裏取引が出てきますが、その角栄が常々言っていたことが、創価学会・公明党について、「あれは妾なんだ。妾であっても、正妻ではないから、家の中(=つまり「政権与党」ということですが)には入れられないんだ」と言い切っています。
それは、田中角栄は池田大作の独裁者としての本質を的確に見抜いていたのだと思います。ですから、1969年に出版された藤原弘達の『創価学会を斬る』に関して、敢えて「言論出版妨害」を行うという「貸し」を作り、1980年から81年にかけての、元学会顧問弁護士・山崎正友の逮捕劇では、池田の「山友憎し」の感情をさっと読み取り、検察に圧力をかけて、わざわざ逮捕にもっていかせることで、池田の“キンタマ”を握り続けたわけです。そして、角栄がいた時代は、自民党が単独で過半数をキープできたこともありますが、創価学会・公明党を「家の中」に入れることの意味が、よくわかっていたのだと思います。
ここで私は角栄が行ったマキャベリズムについて、敢えてその是非についてまでは論じませんが、少なくとも、現・自民党執行部、具体的には、新聞の政治面が「新・闇将軍」などと盛んに持ち上げている「野中“寝返りまくり”広務」や「亀井“訴訟マニア”静香」らが、池田大作を使いこなせるとは、到底思えません。むしろ、結果はその逆でしょう。
特に昨年6月の総選挙で自民党は単独過半数を維持できなかったわけですから、「自・公・保」のうちのどこがキャスティングボードを握っているのは、もはや、小学校低学年の子供でもできる足し算、引き算のレベルですから、すぐにわかるでしょう。つまり、現在の政界で「ウラの総理大臣」の地位にあるのは、「信濃町の生き仏」であるわけですから。
結局のところ、自・自・公(自・公・保)政権の最大の陥穽であり、究極の暗部とは、「宗教の仮面をかぶった全体主義団体」である「創価学会・公明党=池田大作」が、政権中枢に入り込み、ついに国政における決定的な影響力を握ってしまったことだと思います。
実は、前に書いた拙文『今こそ草の根のリベラル・レジスタンス勢力の総結集を』の中で述べましたように、自・公がくっついたときの危険性は、30年も前に藤原弘達氏が『創価学会を斬る』の中で、こう指摘しているのです。
<公明党が社会党と連立政権と組むとか、野党連合の中に入ることは、まずありえないと考える。その意味において、自民党と連立政権を組んだ時、ちょうどナチス・ヒットラーが出てきた時の形態と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中にある狂信的要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁を安定化する機能を果たしながら、同時にこれをファッショ的傾向に持っていく起爆剤的役割として働く可能性を持っている。
そうなった時には日本の議会政治、民主政治もまさにアウトになる。そうなってからでは遅い、ということを私は現在の段階において敢えていう。>
それから30年。藤原弘達氏の予言通り、あの自・自・公において、およそリベラリズムというものが消滅した自民党という上部構造が、下士官組織としての創価学会・公明党を体制内に吸収していくことで、図らずも「日本型ファシズム」の完成を見ることになるのですが、その証拠が、99年中に一気に成立した一連の“戦争法案”ですし、また、昨年秋には参院選挙の非拘束名簿方式が、ほとんどまともな審議もしないまま、成立してしまったことでしょう。
その流れからいけば、昨年十一月の加藤政局(騒動)の鎮圧は、加藤紘一氏本人がどこまで自覚しているかどうかはわかりませんが、自民党内にあった最後の良質なリベラリズムがついに抹殺されてしまったことだと思います。
大衆が、加藤氏の決起に大きな拍手を送ったにもかかわらず、野中・亀井(+公明党・創価学会)という守旧派の有象無象連合に敢えなく潰されてしまったことに、大きな失望感を抱いたのは、こうした時代の空気を、日本の国民が敏感に感じていたからだと思います。
時代の閉塞感の深まりと、自・公政権のやりたい放題とが軌を一にするように、さらに混迷を深めている中で、この文章の冒頭に記したように、若者たちがストリートに出て、アコースティックギターを片手に歌を歌っている姿とは、どこかにつながりはないでしょうか。そして、それはもしかしたら、日本のリベラリズムが消え去ろうとしている全体状況に対する、カナリアの鳴き声ではないのかと思う私は、少し考えすぎでしょうか?
こうしたいまの政治状況を踏まえ、次回からは「カルトとしての創価学会=池田大作」の実態分析に入っていこうと思います。もう少しやわらかい文章を書くつもりでしたが、後半はかなり硬くなってしまって大変申し訳ありません。
(つづく) |