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創価学会シンボルわが国最大のカルト「創価学会・公明党=池田大作」

フリージャーナリスト 古川 利明



第六回

「創価学会=公明党」における池田独裁体制の分析 (中)


1文字アキ今回も、もう少し「創価学会=公明党」における池田独裁体制の細かい分析を進めていきたいと思います。

1文字アキ本稿では、「カルト」の本質を「宗教の仮面をかぶった全体主義」と繰り返し述べていますが、実は、池田大作自身が、「私は全体主義を目指す独裁者である」と、ちゃんと自覚している発言があります。
1文字アキ池田さんは1972年7月15日、社長会という、学会系企業の社長さんたちを集めたメシ食い会の席で、こうはっきりと言っています。

「今、世の中は個人主義、自由主義になっているが、本当は全体主義が一番理想の形態だ。ただ、個がなくなるからいけないだけだ」

1文字アキもともと、自由を求める、自立した「個」を抑圧するのが「全体主義」の本質なのですから、この池田さんの発言の前段と後段には、明確な論理矛盾があります。
1文字アキが、それはともかく、ここでいみじくも「本当は全体主義が一番理想の形態だ」と言い切っているようところに、“宗教”という仮面をかぶって権力の奪取を目指す、池田さんのホンネがはっきりと現れていると思います。

1文字アキ戦前の日本、ドイツの歴史を見てもわかりますように、「全体主義」が台頭してくる中においては、共通の特徴が見られます。
1文字アキ一つは、他国を軍事力で侵略する勢力、つまり、「戦争」を仕掛けてひと儲けしようとする有象無象の連中がバックについていること。
1文字アキ二つめには、言論、出版、報道などの自由、つまり、リベラリズムを弾圧する国家権力の力が働くこと。
1文字アキ三つめには、指導者に対する個人崇拝を強要していくること。
1文字アキだいたい、この3点がセットになって、一つの国家において、全体主義(ファシズム)が確立されていきます。

1文字アキ私の杞憂であれば、それに越したことはないのですが、わが国のバブル崩壊以降、特にこの数年の経済破綻を見ていると、どうもこの3つの動きが、日本全体にじわじわと漂ってきているように思えます。特に、森“サメ脳”喜朗首相の「日本は天皇を中心とする神の国」発言も、本人はどこまで自覚しているかわかりませんが(笑)、わが国のエスタブリッシュメント(もちろん自民党も含まれますが)の中に、脈々と流れている国権思想復活の臭いがプンプンとします。

1文字アキ藤原弘達氏は、既に30年も前に『創価学会を斬る』の中で、「自民党と公明党が連立政権を組んだ時が最も危ない」ということを指摘していますが、この藤原氏の言っていることをもっと詳しく見ていきますと、日本の民主政治がアウトになるのは、「公明党・創価学会=池田大作」と、自民党の中でも、国権派、つまり“極右”が合体した時が最も危険であって、その時が、まさにもっと最低最悪の状況を迎える、ということです。
1文字アキ確かに、現在、自・公政権下でムチャクチャなことが行われていますが、例えば、次の参院選と総選挙で、自・公体制が崩壊すれば、すべてが解決するという問題では到底ありません。
1文字アキおそらく、今後、選挙で敗北して自・公が崩壊し、下野ということになった場合、「政権与党でいること」しか存在意義のない自民党は、壊滅に近い打撃を受けるでしょうが、「創価学会=公明党」という組織は、たとえ、議席数を減らしていったとしても、残り続けると思います。つまり、それだけ「しぶとい」というか、生命力のある組織だと私は思います。

1文字アキだとすれば、常にわが国のエスタブリッシュメント(の中でもいちばん質の低い連中ですが)が、「公明党・創価学会=池田大作」を体制の補完物として利用しようとする“下心”を持っている限りは、日本の全体主義化という危険は常に潜んでいると思います。
1文字アキ最近、中曾根“大勲位”康弘元首相が、何を血迷ったのか、「次の首相の適任者は、石原慎太郎、亀井静香だ」とのたまわっておられますが、今後、“極右・国家主義”新党が旗揚げした場合、例えば、現在はとりあえず反学会の姿勢を見せている石原慎太郎や小沢一郎が、そう遠くない将来、池田大作と握手をする可能性もゼロではありません。

1文字アキもちろん、常日頃から「反戦平和の闘士」の仮面をかぶっておられる池田センセイも、一応は「憲法第9条には手をつけるべきでない」(1月26日付け聖教新聞)と、最近はその厚い化粧がはがれかかってきていますので、平和主義者、リベラリストのフリをするのに余念がありませんが、コウモリは、いつも何の前触れもなく豹変しますから。
1文字アキ将来的に、石原・小沢といった“極右国家主義”と池田大作の“創価全体主義”とが手を結んだときが、いままで以上に最もアブないと、私はいまの時点で敢えて言っておきたいと思います。
1文字アキそういう点から見ていきますと、「創価学会・公明党=池田大作」のファシズム的な体質のどうしようもなさもさることながら、それを利用しようとするエスタブリッシュメント、つまり体制側(官僚、自民党、財界)の節操のなさも、もっと厳しく問われてしかるべきでしょう。

1文字アキここで「全体主義」のシステムとは不即不離の関係にある、「指導者(=グル)に対する個人崇拝」ということを、ここではカルトにほぼ共通して見られる、「洗脳(=マインドコントロール)」のテクニックと合わせながら、説明していきたいと思います。
1文字アキ「洗脳(=マインドコントロール)」という言葉も、オウム真理教のテロ事件をきっかけに、「カルト」と一緒にして流行り言葉のように使われている感もあります。専門家によっては、「洗脳」と「マインドコントロール」を使い分けているようですが、ここでは「洗脳」という言葉に統一したいと思います。
(※「洗脳」は苦痛を伴うのに対し、「マインドコントロール」の方は、語感として柔らかい響きを持っているため、知らず知らずのうちに自然と心が操られていくケースに用いられる場合が一般に多いですね。ただ、最近は身体的な罰を加えるといったような苦痛を伴う方法は少なくなってきていますし、「洗脳」という言葉そのもがダイレクトでわかりやすいため、私は基本的に「洗脳」の方を好んで使っています。)

1文字アキ一般にカルト集団では、グル(指導者)に対する忠誠心を刷り込むために、「洗脳」が行われています。具体的には、わかりやすい言葉で何度も何度も繰り返して、その教団の教義なり、グルの絶対性を信者に刷り込ましていきます。そして、その結果、信者は精神的にも肉体的にもグルに依存させられることで、批判精神を削ぎ落とされ、最終的には、グルに絶対的な忠誠を誓うようになります。
1文字アキこの「洗脳」という言葉の由来は、1950年の朝鮮戦争で、中国が捕虜とした捕らえた米兵に、自国の共産主義を植えつけるために行った教育を、エドワード・ハンターというアメリカ人ジャーナリストが、「ブレイン・ウオッシング」と呼んだのが、その始まりとされています。

1文字アキ一般に「洗脳」は、「・解凍(揺さぶり)→・変革(埋め込み)→・再凍結(強化)」の3段階を経て行われます。つまり、それまで本人が持っていた信念やアイディンティーをいったん破壊したうえで、新しい教義や思想を注入し、さらにそれを強化、定着させるというわけです。

1文字アキ中国共産党が米兵捕虜に対して行ったのは、物理的に身柄を拘束した状況下でありましたが、このプロセスは、カルト内におけるメンバーへの洗脳でも、ほぼ同様にあてはまります。

1文字アキ例えば、この「洗脳」のプロセスを、創価学会の場合にあてはめて見てみましょう。
1文字アキまず、第1段階の「解凍(揺さぶり)」は、折伏によって、それまで本人が持っていた信仰や価値観を否定させ、学会員として入信させることです。
1文字アキ第2段階の「変革(埋め込み)」では、本格的に“池田教”の神髄を頭の中に注入することになりますが、そこでは朝晩の勤行とともに、「日夜、世界平和のために邁進しておられる池田先生」が、いかに偉大な指導者であるかが、繰り返したたき込まれます。

1文字アキそして、大事なのが、この第3段階の「再凍結(強化)」です。
1文字アキというのは、せっかく注入した教義や個人崇拝も、これを繰り返さないと、また元に戻ってしまうからです。
1文字アキ創価学会を取材していくと、現場の学会員、特に選挙の際のブロック台帳で「A」にランスされる活動家は、連日、朝から晩まで会合づけの日々です。ある元学会幹部は「忙しくて、常に寝不足の状態にあって、自分の頭でモノを考えるゆとりもない」と述懐していましたが、特に選挙が近づくとF(フレンド)票と呼ばれる、公明党議員に票を入れてくれる外部のシンパ作りに飛び回ります。
1文字アキでもって、学会内部ではこうした選挙活動が「信仰の喜び」「広宣流布の実現」などと、信仰活動の一環として巧妙に誘導していますので、こうした活動を通じて、「池田先生に対する崇拝の念」が、いやがおうでも強化されていくことになるわけです。

1文字アキ実際、末端の“信心の深い”学会員に、「池田先生」に対する思いを聞くと、それはそれはすさまじいものです。
1文字アキ「先生は慈悲そのものの方だ」「先生は私たちの悩みをすべてわかってくださる」「先生には私たちの真心は必ず通じる」「先生に近づけば福運がつく」……。
1文字アキすごい人は、「先生」に声をかけられた、「先生」から手紙を頂いたというだけで、涙ぐむという会員もいます。
1文字アキこうした、いわば“善男善女”ともいえる会員たちは、「池田先生は日夜、世界平和のために粉骨砕身、邁進しておられる」と信じて疑っていませんので、そういう人に「実は池田さんの本心は、権力を獲得することであり、カネをかき集めることなんです」と言った日には大変です(もちろん、中には醒めた目で池田さんを見ている人もいますが……)。
1文字アキそれまで柔らかな表情だった学会員の目つきがみるみるうちにつり上がり、「あなたは何もわかっていない。三流週刊誌やブラックジャーナリストの言うことを鵜呑みにしているだけ」と、えてして激しい動揺や怒りを見せてしまうのです。

1文字アキ最初のうちは、こうした取材の中で、池田さんに対するクリティカルな情報も出していたのですが、取材を重ねるうちに、どうせ切り出したところで喧嘩腰になるだけですので、途中からやめました。
1文字アキでも、こうやって学会員が身を乗り出して、「池田先生」を称賛するさまは、驚きを通り越して、最後にはあきれてうんざりしてしまいます。
1文字アキ別に「池田先生」の話題に触れなければ、末端の学会員の人たちは、えてして明るくておおらかな人が多く、話していて実に楽しいのです。が、しかし、ある一線を越えると、私でもついていけなくなってしまいます。それが「池田先生」という存在なのです。

1文字アキ別に、百歩譲って、こうした集団が政治的な関わりを一切持たないのであれば、まあ、それはそれでもいいというか、仕方がないかもしれません。
1文字アキしかし、実際には「創価学会=公明党」という存在がダイレクトに日本の政治に関わっているわけです。これが最大の問題点だと思います。
1文字アキ通常、私たち有権者がどの政党を支持するかどうかを判断するとき、その政党がどのような公約を掲げ、どのような政策を実行したかが、厳しく問われるべきでしょう。そして、その結果から、選挙ではどの政党のどの候補者に投票すべきかを判断しなければならないと思います。

1文字アキところが、「創価学会=公明党」の場合だと、こうした合理的な判断が基本的に存在しません。
1文字アキつまり、学会員が公明党に投票するのは、結局のところ、「公明党は池田先生が創設したから」であり、「公明党議員は、池田先生をお守りする」からであり、また、「公明党議員は同じ本尊を信仰する仲間」だからです。
1文字アキそこでは、例えば、自・自・公における公明党の方針転換に対して、「なぜ、そんな唐突なことが許されるのか」という批判、疑問の声が、学会員からほどんど聞かれなかったのは、正直、びっくりしました。
1文字アキこういうのは、やっぱりおかしいと、私は思います。

1文字アキここでもう少し、「集団(=組織)」と「個人」との関係を整理してみますと、W・ビオンという精神分析家は、「集団の中にいると人間は1人でいるときや2人でいるときより現実的な判断を失ってしまう」と述べています。
1文字アキビオンは、こうした「集団」のはたらきの面に注目して、「課題集団(ワーク・ブループ)」と「基底的想定集団(ベーシック・アサンプション・グループ)」の2つに分類しました。
簡単に説明しますと、「課題集団」とは「ある課題のために協力して前進していこうとする集団」、「基底的想定集団」とは「課題達成をじゃまする、わけのわからないいろんなものがごちゃごちゃと動いている集団」のことです。
1文字アキビオンは、こうした人間の集団がその「課題集団」と「基底的想定集団」の間を秒単位、分単位、時間単位、年単位で絶えず動いている、と考えました。

1文字アキ確かに、課題を達成するためには、1人でやるより、「集団(=組織)」で取り組んだ方が能率が上がるというメリットがあります。
1文字アキしかし、こうした集団とは、課題以外のところで人間の心の原始的な部分が動き、その部分があらわになって、仲良く一緒にやっていこうと思ったはずなのに、仲間外れが出たとか、妙に強力なリーダーが出てきて、みんなが本当の意味で楽しめなくなったとか、えてしてそういう動きが出てきます。
1文字アキここで、マルクスの指摘した「共同体概念は個人を疎外する」というテーゼが現れてきます。これが「全体主義の起源」であると私は思います。

1文字アキビオンはこうした「基底的想定集団」の持つ特徴に「依存」ということを挙げています。
1文字アキ集団の中にある種のカリスマのような人がいて、その人が言ったことはすべて正しく、その人がダメだといったことはすべてが正しくないということを決めれば、所属するメンバーはいろいろと考えずに済みます。また、人間関係においても、自分とそのカリスマとの関係が重要であって、他の人同士の関係はほとんど無視できる形になります。
1文字アキそうした集団では、「わからないこと」を極端に恐れます。その場合、えてして行われるのは、だれかをスケープゴートにすることです。そうすれば、集団内の攻撃性は全部スケープゴートに向けることができるので、分からないことがどんどん減っていくのです。しかし、その代わりに、個人が集団を統率するカリスマに「依存」しきってしまうことで、自分の頭でモノを考えるということがなくなっていってしまうのです。
1文字アキビオンの指摘する「基底的想定集団」が、極限の形にまで“進化”してしまったものが、「カルト」という集団ということではないでしょうか。

1文字アキ話を元に戻しまして、「全体主義」という政治体制と、指導者への個人崇拝がセットになっているというのは、既に述べましたが、これは戦前の日本において、典型的にあてはまると思います。
1文字アキ特に戦前の天皇制は、国家神道と皇国史観という教義によって、天皇という「一個人」を「現人神」へと祭り上げていって、国民を戦争に駆り立てていきました。その意味では、戦前の大日本帝国は、「カルト国家」だったと言っても差し支えないと思います。

1文字アキ個人的な事柄で大変恐縮ですが、私の祖父は中国戦線で戦死しました。1938(昭和13)年のことです。
1文字アキ伍長だった祖父は、亡くなる半年ほど前の昭和13年2月初旬、徐州近郊で戦闘にあたっている味方に弾薬を供給しようと、真冬の幅約500メートルの川を泳ぎ切りました。川を渡ろうとしたのは5人でしたが、残る4人は濁流に呑まれるなどして、行方不明になりました。
1文字アキこの祖父の行動によって、味方の部隊は窮地を脱したため、軍曹に昇格しました。戦前、講談社から『はだか伍長』と呼ばれる、戦争を鼓舞する絵本が出版されましたが、そのモデルは私の祖父です。
1文字アキ勇猛果敢とされた私の祖父も、それから半年後、後頭部に銃弾を受けて亡くなりますが、その亡くなる直前に叫んだ言葉が「天皇陛下万歳」だったと伝えられています。

1文字アキ私が生まれたのは、1965(昭和40)年ですので、もちろん、戦争とは無縁の世代でしたが、祖父がこうした形で戦死したことは、私の家族に何らかの影を落としていたと思います。
1文字アキ自分は確かに戦後の高度経済成長下の、ありあまるほどの繁栄の中で生まれ、育ってきました。そうしたせいかもしれませんが、実は少年時代、そして、大学を卒業して新聞記者になってからも、恥ずかしながら、「戦争」ということを突き詰めて考えるということは、ほとんどなかったのです。
1文字アキそんな私が、「戦争」だとか、「全体主義」だとかいうことを、きちんと考えるようになったのは、ごく最近のことです。
1文字アキそれはおそらく、私が「書く」という行為を通して、社会と関わり合うようになったことが大きく影響しているのだと思いますが、その出発点にあるものは、あの戦争によって一つの家族が翻弄され続けてきたという原体験だったように思います。

1文字アキ「天皇陛下万歳」と言って死んでいった祖父を思うとき、何とも複雑な思いが私の胸をよぎります。いまでも時々、帰省すると、祖父の死を知らされた時の祖母の思いを聞くことがあります。そして、その話を聞くたび、いつも思います。祖父の死は「犬死にだった」と。
1文字アキ国家権力が戦争を遂行しようとするとき、そこには必ず、「言論弾圧」と「指導者に対する個人崇拝」という動きがセットになって出てきます。つまり、それは人間の自由だとか、自立だとか、批判精神を抹殺しようとする動きですが、こうした流れを考え合わせてみると、戦争の遂行と全体主義の確立というのは、このようにコインの裏表の関係にあるといえるのではないでしょうか。

1文字アキそういうことから考えてみますと、自・自・公政権下で一連の“戦争法案”が国会を通過したことと合わせて、憲法第9条の改正を念頭に置いた憲法調査会の設置、サメの「神の国発言」と、何ともいえないうさん臭いというか、不穏な動きに、私は全体主義(ファシズム)の足音を感じます。
1文字アキだとすると、あらためて「宗教の仮面をかぶった全体主義団体」であるところの「カルト」が、わが国の政権中枢に入って、政治をコントロールすることの危険性が、よりいっそうはっきりとしてくるのではないでしょうか。
1文字アキ私も含めて、人間はいつ死ぬかわからない存在です。だれも明日という日を保証された人など、誰もいないのです。サルトルの言うように、「人間とは、自由という刑に処せられた死刑囚」だと思います。
1文字アキしかし、よりまともな社会、よりよい社会というのは、とどのつまり、人間に“非業の死”を強要しない社会ではないでしょうか。「畳の上」で自らの人生を全うできることが、実は最も「人間的な死」ではないでしょうか。

1文字アキ私が新聞記者をやりながら、幾度となく見てきたのが、「非業の死」です。
1文字アキ犯罪に巻き込まれたり、事故の被害にあったり、そういったことで命を落とした遺族の涙を葬式の取材で見てきました。事故現場で、そうした死体を目にしたこともあります。そして、おそらく、“非業の死”の極限にあるのが、「戦争による死」だと思います。
1文字アキ「天皇陛下万歳」と叫んで命を落とした私の祖父を思うとき、そして、そのような“天皇の赤子”として洗脳された軍人たちによって、意味もなく殺害されていったアジアの民衆を思うとき、痛切にそういうことを感じます。

1文字アキ私の立場はリベラリストですので、さまざまな意見や主義主張があることは認めます。この国に天皇制を中心とした国家を作りたいという人たちがいたり、ファッショ的な体質を色濃く持つ巨大カルトが存在すること自体は否定しません。逆に、10人中、10人がリベラリストだったら、気持ち悪いですから。

1文字アキしかし、リベラルな考え方を否定する勢力が政治的影響力を行使することについては、最低限にその力を抑止させるべきだと思っています。
そういうことからしますと、私は創価学会の存在自体は否定しませんし、少なくとも、創価学会が戸田城聖の時代に、政治に進出した時点においては、世の中を浄化しようとする、宗教者としての「志」はあったと思います。

1文字アキとはいえ、宗教団体が政治に関わることに関しては、明確な一線が引かれてしかるべきだと思います。
1文字アキもし仮に、宗教が政治に関わるとするなら、それは「権力を目指す」ということではなくて、権力の横暴をチェックし、政治腐敗を批判するという、“永久野党”、もしくは“永久革命”の立場に徹するべきではないでしょうか。
1文字アキもともと、日蓮が国家諌暁という形で、時の権力者・北条時頼を説き伏せようとしたのも、法華経を至高とする仏法によって、政治を治めて民衆を救済せよと諫言しただけのことで、「国家権力の乗っ取りを目指せ」などとはひとことも言っていないはずです。
1文字アキ少なくとも、創価学会(=池田大作)がやっているように、政党を作って国政(それも衆院)に進出し、政権与党として国家権力の中枢に入り込むということは、明確な憲法違反であることはもちろんです。
1文字アキましてや、あの商品券構想に象徴されるように、ある特定の“宗教団体”への便宜供与を、時の政権与党に圧力をかけて、政策として実行させるのは、まったくの論外だと思います。

1文字アキ確かに、公明党が寝返ったことでできあがった自・自・公以降、とんでもないことが次々と起こりつづけていますが、まあ、「自・自・公」によって、これまで「池田大作=創価学会・公明党」が被ってきた“宗教団体”の仮面が剥がれ落ち、その下に隠されてきた「全体主義」という本性が、ようやく白日のもとにさらけ出されたことを考えれば、「自・自・公」も、(もちろん皮肉を込めてですが)悪いばかりではなかったという気もします。

1文字アキ次回は、池田大作のキャラクターを分析することで、もう少し、カルトの特質である「グル独裁のシステム」ということに迫ってみたいと思います。

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