「少し長めの序文――この本の生い立ちと内容」
この本はインターネットから生まれた
このたび『自自公を批判する』というこの本を緊急に出版することにしました。私がこのことを思い付いたのが2月2日の深夜でした。そして、この本が出来上がる予定が2月23日です。私はこれまでに四冊の本を出版しました。その経験からいえば恐ろしいスピードです。こんなことを可能にしたのが、コンピューターの発達であることは論をまちません。
私は郵政族の一員といわれる政治家の一人ですが、世の中のコンピューター化に郵政行政を通じて関りあってきたことに、今回のことを通していささかの満足を新たにしました。
しかし、この本がこんなに早くできた理由はもうひとつあります。それは、この本の7割近くが1999(平成11)年12月1日に開設した私のWebサイト(日本では、普通ホームページといわれることが多いのですが…。ただ、世界的には、Webサイトといいますので、以下、そう呼びます。)にあるものを活字化したからです。私のWebサイトに掲載されているものは、すでに電子化されています。これをコンピューター上で切ったり貼ったり変更すれば、それが直ちに印刷可能な状態になります。そうでなければ、いくらなんでもこんなに早く本にはなりません。
本当はもっと早くすることもできたのですが、この本の出版にあたってどうしても新しく書き下さなければならない部分があったので(例えば、この序文など)、四日間余計にかかってしまいました。便利な世の中となったものです。この本は、全部が全部、私が書き下ろしたものではありません。しかし、私が全責任をもつ私の著作であります。
私のWebサイトの開設の日の「永田町徒然草No.1」で書いたように、私は「自自公問題」について一冊の本を出版しようと考えました。このような考えを持ち始めたころ、インターネットを始めつつあった栗本慎一郎代議士(栗本代議士のホームページ・アドレスは、
www.homopants.com )と懇談する機会がありました。栗本代議士にそんな話をしたところ、
「白川さん。それならば、Webサイトを開設すればよい」とのアドバイスを受けました。これが私のインターネットとの出会いとなりました。
私は仕事柄インターネットについて多少の知識と理解を持っていました。しかし、パソコンを使って他人のWebサイトを見たこともなければ、その操作も全くできない私でした。かてて加えて、私はワープロも打てません。もちろん、私の秘書たちはワープロやパソコンを駆使して仕事をしていますし、秘書たちにそうした仕事を私はどんどん頼みますが、私自身はワープロを打ったりパソコンを操作する気は全くありませんでした。そういうことは私には無理だと思い込んできました。
私は、よくこんな冗談をいってこのことを敬遠してきました。
「私たちの時代は、ピアノもオルガンも持たせてもらえなかった。だから、手先は不器用なんです。私にはワープロやコンピューターを打つなんて無理なんです」
そんな私ではありましたが、11月中旬ころWebサイトを開くことを決めました。もともと一冊の本を書くつもりでしたから、他の政治家のWebサイトにくらべるとマメに更新してきたほうだと思います。その時々で書いたものがこの二カ月で相当たまっていましたから一冊の本にすることができたのだと思います。
しかし、一冊の本を書き下ろすのとは明らかに違いますから、多少の重複や論理展開の不十分さは免れえません。完璧主義者の私には、内心忸怩(じくじ)たるものは禁じえません。しかし、現下の情勢は、too
early, too better(早ければ早いほどよい)であることは賢明な読者諸氏は理解していただけると思います。そう考えて、一つのWebサイトを一冊の本にするということを試みることにしました。他国の事情は知る由もありませんが、わが国ではまだこうした例は少ないのではないかと思います。
Webサイトの開設
私自身がインターネットを始めてみて、また必要に迫られてWebサイトを開設してみて痛感することは、「永田町徒然草No.18」で書いたことです。
「自自公問題に関心のある方は、必ずしもインターネットに強くない。インターネットに強い人は、必ずしも自自公問題に関心がない」
私のWebサイトは、政治家のWebサイトとしては異常といわれるくらいアクセスがあります。また、専門家の世界でアクセス数以上に重視されるヒット数は、日に一万数千件を数えます(注ー現在は平均三万五千件くらいあります。いちばん多いときは、一日に十万件を超えるヒット数があったときもあります)。その意味では私のWebサイトはとりあえず大成功だったといえます。しかし、私が戦っている相手は自自公という巨大な現象であり、これを一日も早く解消するという課題からみれば、こんなことで満足している訳にはゆきません。
インターネットというツールで伝えることができない人々には、別の手段で私の考えを伝えるしかありません。そこで思いついたのが、Webサイトを活字化して本にしようという考えでした。このような本を通じてインターネットというものの雰囲気をつかんでもらい、インターネットに少しでも興味をもっていただき、そしてできれば直接に私のWebサイトにアクセスしてもらえれば幸いであると考えました。なぜならば、私のインターネット上の戦いは現在も続いておりますし、今後も続いてゆくからです。したがって一冊の本としての一貫性・なめらかさが多少犠牲になることも耐え忍ぶことにしました。読者諸氏にも、このことをご理解していただきたいと思います。
その代り、この本には読者と共に同時進行で作られたという面白さがあるはずです。その代表はもちろん、V章の「書込交流広場」からの抜粋です。私は、あまり深く考えないで「書込交流広場」の前身「書込交流BBS」を設けることに賛成しました。しかし、専門家にいわせるとこれはたいへん怖いことなんだそうです。一時的にではありますが、現にそういう場面もありました。「書込交流BBS」への書込は、開設から70日間で370件ありました(注ー平成12年6月12日、公職選挙法の規制で旧BBSを閉鎖するまでに全部で、約14,000件の書込みがありました。6月26日からは新BBSになりましたが、現在までに2400件を越える書き込みがありました)。私が書き込んだのが60件です(注
─ BBS開設から現在までに私が書き込んだ件数は、全部で140件ほどです。旧BBSの書込みについては旧HPの「書込交流広場(BBS)においての」をご覧下さい。新BBSでは、投稿者別のところをクリックしていただければ簡単にご覧いただけます)。私のWebサイトのなかでいちばんヒット数の多いのが、この「書込交流広場」=「書込交流BBS」です。
また、平成一二年一月一八日に俵孝太郎氏が代表発起人となって開催された「政教分離を貫く白川勝彦氏を激励する会」における俵孝太郎氏の講演録などは、BBSを通じて瀬戸大雄さんからのリクエストがなかったならば作ることもなかったと思いますし、Webサイトに掲載されることもなかったと思います。ここで電子化されていなかったら、緊急に出版するこの本に載せることなどとうてい不可能だったと思います。書込みの数や内容が、情報の発信者である私の気持や内容に影響を与えることは否めません。「永田町徒然草」の論調や「政治論としての自自公連立批判」の内容は、こうしてできあがりました。ここが一般の本と違うところかも知れません。
「特打ソフト」で特訓
私のWebサイトを作成し、その運営を手伝ってくれている人――Webマスターといいます――が、私のWebサイトを手伝うに際してつけた条件がたったひとつありました。それは私がタイプを打つことでした。先に述べたような理由でそれは難しいと答えたところ、それならば引き受けられないというのです。ずいぶんと堅苦しいことをいう人だなあと、最初は思いました。
私には秘書がたくさんいるし、皆タイプが打てるのだからそれで用は足りるのだから、何も私自身が打てなくてもよいではないかというんですが頑として受けつけないのです。私としては、Webサイトをどうしても立ち上げたかったしその必要性もありましたので、不承不承タイプを始めることを約束しました。不承不承とはいえ男同士の約束ですから、栗本慎一郎代議士からもらったノート型パソコンに「特打ソフト」を入れかなり真剣に練習しました。最初のうちは、1~2時間もやると肩がバンバンに張りました。しかし、生まれて初めてタイプを打つという楽しさもあり、一週間もするとそれほど肩は凝らなくなりました。
一昨年の夏、50歳という若さで大腸ガンで亡くなった私の政策秘書田口正比古君はタイピングの名手でした。私は、ご存知の方も多いと思いますが、党内や国会内でいろんな仕掛けや活動をしてきました。そんな関係でいろいろな文書を急いで作らなければならないときが多々とあります。
「田口君、これ、特に急ぐからプロに頼んで早く作ってくれ」というと、
「私、プロより早いですよ」といってよく夜を徹して打ってくれたものです。
彼が健在のころ、私はワープロなど全くやる気はありませんでしたし、彼も私にやったほうがいいなどということはひと言もいいませんでした。しかし、タイピングを始めると何かのとき田口君が、
「ワープロは、絶対にローマ字入力で覚えないとダメなんです。また、ブラインドタッチを覚えないと絶対に早くならないんです」といったことが妙に鮮明に思い出されてくるのです。
私は、田口君の遺言と思い、ブラインドタッチ(キーボードを見ないでタイプを打つこと)だけは頑なに守りました。そうすると自然に早く打てるようになりました。もっとも私の事務所の若い秘書にはとてもかないませんが、こんなものは所詮慣れだと思って開き直って自信をもってやっております。
50の手習いのタイピング
Webサイトを立ち上げたのが、平成11年の12月1日でした。それから一カ月くらいして、Webマスターがなぜタイピングを私自身がしなければならないといったのか、ようやく理解できるようになりました。
まず電子メールソフトを立ち上げるとメールが結構入ってきます。これは私に対する手紙みたいなものですから、できればちゃんと返事を書かなければならないと思います。もちろん、原稿を書いて秘書に打たせても相手にはほとんど判らないとは思います。しかし、なかにはメールの内容も私の返信も、秘書に見せられないものもあります。こういうものは自分で打たなければメールのやりとりができません。もっと大きなことは、メールをみてそのとき感じたことをそのまま短くてもよいから返信するということが大切だということです。
こんなことがありました。2000(平成12)年1月22日午前2時頃、私は私が所属する政策集団宏池会の会長である加藤紘一代議士にメールを送りました。翌朝目を醒まして、すでに習慣となっているメールボックスをあけました。朝の7時ころでした。そうしたら加藤代議士からの返信のメールが入っていました。よくみるとそのメールの発信の時刻は、1月22日午前2時45分ではありませんか。この日、加藤代議士も夜ふかしをしていたんだと思いました。また私のメールをみて、すぐ返信してくれたのだと思うといささかの感激でした。私は、いままでとは違う親しみを加藤代議士に改めておぼえました。
もうひとつ、WebサイトにBBS
( Bulletin Board System ─ 掲示板。をご覧下さい)
を設ける場合、タイピングできることが絶対に不可欠だということです。書込まれたメッセージをプリントアウトとしておいて、それにコメントを書いて秘書に打たせて書込めば同じではないかと思っていましたが、これもやはりメールと同じで私自身が直接やった方がはるかに気持が伝わります。BBSをみている人には判かるんです。
タイプを打つということは、私にとっては50の手習いでした。まだ必要な範囲の最低限のレベルではありますが、何とか打てるようになって感じますことは、
「俺だって、まだまだ、結構やれるじゃないか」という自信です。ほかのことでも、まだまだ挑戦してやればやれるのではないかという気持が強くなりました。これは大きな財産だと思います。
「西暦2000年
新時代 始めましょう」
今年の私のメッセージであり、スローガンです。これは私のこのような経験のなかから生まれてきたものです。
ご同輩、やればやれるものですよ。
不気味な感じさえする言論界の真空
わが小渕首相の「真空」はいまや有名となりました。ご本人は開き直って、ご満悦でさえあるようです。そうはいっても、これはやはり問題なのでしょう。この点については、本書に収録した加藤紘一宏池会会長のインタビューでのべられているのであえて触れません。私も全く同意見です。
私が不気味に感じるのは、言論の世界における自自公に対する「真空」ぶりです。数多い政治学者・政治評論家のなかで、自自公連立の政治的問題で論陣を張っているのは俵孝太郎氏くらいのものです。タブーなきマスコミ界であるのに、創価学会=公明党のことだけは別のようです。本当に問題がないのならば、私はこんなことをいうつもりはありません。しかし、「自自公連立の政治論的批判」で述べるように、自自公にはあまりにも問題が多すぎます。国民も、これだけ強い拒否感をもっています。それにはそれなりの理由があるからです。自自公連立を肯定する立場であれ批判する立場であれいずれにせよもっと論評はなければならないと思います。私は不気味ささえ感じます。
なぜ、このような腑甲斐ない状況なのか。これを論ずると一冊の本となるでしょう。私にはその問題点を体系的に書くだけの能力もなければ時間もありません。これは他の専門の方に譲ることにします。
それにしても、健全な批判精神というものが急になくなりはじめていることだけは随所で感じます。その筆頭が創価学会=公明党問題であり、政教分離問題であり、自自公問題の三点セットです。これは互いにリンクしています。しかし、国民の6~7割が自自公連立政権をよくないと思い、拒否反応や嫌悪感をもっている以上、この問題をタブーとして避けることは言論の府といわれている国会やジャーナリズムの世界では許されないことと思います。いずれ、歴史が審判するでしょう。
創価学会=公明党は、巨大な自前の宣伝ツールを持っています。『聖教新聞』、『公明新聞』、『創価新報』、『潮』、『第三文明』などなど。新聞を一日を一部と数えると月に2~3億部になるでしょう。私も光栄にもここで取り上げられ、「白川勝彦」という名前だけは相当に宣伝してもらいました。創価学会や公明党は、Webサイトを開いています。昨日もちょっとアクセスしてみましたが、政治評論家俵孝太郎氏や私のことを例の調子で盛んに攻撃していました。
創価学会=公明党のあのお化けのように大きな宣伝体制を量において凌駕することは誰もできませんが、インターネットの世界は全く違います。創価学会や公明党のWebサイトも、私のWebサイトも、条件はまったく対等です。量ではなく質の勝負ができるのです。面白いですよね。だから、私は、創価学会=公明党の主張も私のWebサイトのビジターにみてもらおうと思い、創価学会と公明党のWebサイトをリンク集に掲げております。創価学会や公明党のWebサイトには、いまのところ(平成一二年二月五日現在)私のWebサイトはリンクされていません。
20万円足らずの小さなパソコンで、あの巨大な組織とまったく対等の勝負ができるのですから、インターネットってすごいと思います(注
─
ここを読んで栗本先生からもっと高かったとクレームを付けられました)。
わが闘争――第二ラウンドの開始
創価学会=公明党と私の戦いは、私にとっては第二ラウンドです。第一ラウンドは、もちろん平成六~八年までの戦いです。この時は亀井静香代議士が総大将でした。今回の戦いに彼はいません。なぜだか知りませんが、別に前非を悔い改めたという話は聞いておりません。私は自由主義者ですから、彼がいかなる理由でどういう態度をとろうが、それは彼自身の自由であり干渉するつもりはありません。ただ自由主義者である以上、その責任は負わなければならないということです。この第一ラウンドについては、Ⅲ章の「『憲法二十条を考える会』の結成と顛末」で触れておきました。
今回の戦いの火ぶたは、1999(平成11)年8月8日テレビ朝日の「サンデープロジェクト」における田原総一郎氏と平沢勝栄代議士・小林興起代議士と私の三人の討論から始まりました。例によって翌日から私の事務所の電話は鳴りっ放しでした。しかし、今回は相当の割合で、
「よくいってくれた。がんばってください」というのがあったのが以前との大きな違いでした。
しかし、私はかなり以前から創価学会=公明党との第二ラウンドの戦いは避けえないと思っていました。以下に引用する記事は、月刊『政界』の1999(平成11)年7月号に掲載された大下英治氏の連載「同時進行ドキュメント『自民党総裁選に動き始めた加藤紘一の決断』」からの抜粋です。私に対する取材は、5月20日に行われました。大下氏が実に要領よくまとめて記事にしてくれました。自自公問題が最大の争点となった自民党総裁選の見通しなどを五月の時点で私は予測し、事実上の宣戦布告をしています。政治は、局面ごとの勝負であると同時に、ロングレンジの戦いでもあります。その辺を理解していただくためにも、少し長くなりますが引用させてもらいます。
自民党総裁選に動き始めた加藤紘一の決断
大下英治
(
前略 )
加藤立つべし
自民党団体総局長で加藤派の白川勝彦は、それでも加藤は出馬すべきだと考えている。加藤派のなかにある小渕派との連携を重視し、出馬を見送るべきだという意見については、総裁選をやる気がない人の意見でしかないと憤る。
「総裁選というのは、そんなものではない。総裁選は、議論をするために二年に一度おこなわれる。議論をすれば党内がもめるから、総裁選はしないほうがいい、党のためにもならないというのならば、極端にいえば、国会だって国家のためにならないということにもなる。民主主義をどう考えているのか、首をかしげざるをえない。一番大事なのは、天下国家のために総理総裁は、なにをするかということだ。加藤会長は、どういうものの考え方をして、どのように日本を引っ張っていきたいのかを明快にしていかないと、加藤政治は生まれてこない。総裁選は、一人の政治家が、自民党をどのような方向の政党にするのか、日本をどのように引っ張っていくかという命がけの戦いをおこなう場だ。だからこそ、党員も、国民も、真剣に見ている。小渕首相の方針で本当にいいのか、と思っている人は多い。小渕内閣の支持が上がっているからそれでいい、加藤さんは出ないでほしい、などと馬鹿なことをいうべきではない。心ある国民や党員は、赤字国債を大量に発行し、こんなに次から次へと借金を作っていていいのか、とみんな思っている」
白川は、加藤派の圧倒的多数は加藤立つべし、という意見だと思っている。
「だからこそ、われわれは加藤さんを宏池会の会長にしたのだ。優勢かどうかは、人さまが決めるものだ。まず立たなければ、人は応援できない。政治家には、勝敗は時の運という気持ちがなければいけない。小渕再選がはじめから決まっているわけではない。総裁選まで、まだ四カ月もある。それまでの間に政策の準備をしておく。チャンスは、この九月しかない。九月にそなえてみんなが一所懸命勝負をかけるというのは、当たり前のことではないだろうか」議論がない政党、議論がない国は滅びる
小渕派が、総裁選をおこなわず、無投票で小渕再選を狙っていると伝えられていることについて異論を唱える。
「将棋の世界では、名人戦を勝ち抜いてはじめて名人という勲章が与えられる。名人戦を経ずして名人になることはできない。今回だけは名人戦をなくしてくれないか、というのでは本当の名人とはいえない。さわやかな総裁選はありえない、ともいわれるが、さわやかな総裁選をいつでもできる自民党でなければ国民政党とはいえない。さわやかな総裁選を堂々と展開し、名人を決めていく。いったん名人が決まれば、そのもとで一致結束するのが自民党だ。政権を担当させてもらっている自民党は、いつでもさわやかな総裁選をおこない、自民党のありかた、国家のありかたを議論していく。議論がない政党、議論がない国は滅びてしまう」
白川は、議論つまりディスカッションの意味をあらためて考えるべきだという。
「ディスカッション(
discussion )という言葉は、日本人ならだれでも知っている。が、ディスカスという言葉の意味は何か。Aディス(
dis )Sとは、A否定S、Aカス( cuss )Sとは、A呪うSA恨むSという意味だ。つまり、ディスカッションというのは、どんなに激しく議論をしても呪いや恨みを残さないという意味だ。それゆえ、『爽やかな総裁選ができない』という人は、『ディスカッションができない政治家』と天下にいっているようなものだ。ディスカッションができない政治家は、自由な社会の政治家ではない」
さらに、総裁選により路線をしっかり確立しなければ、総選挙も戦えないという。
「一年半以内に、かならず総選挙がある。そのとき、どういう態勢でいくのか、他党との関係はどうするのかをはっきりとさせ、自民党はこういう方針でいく、ということを明快にしなければならない。それがなければ、総選挙も戦えない。このままズルズルと選挙に入れば、自民党はまちがいなく敗北する。いまのような、その日暮らし、あるいは、ご都合主義でいけば過半数を割る。前回の総選挙では、自民党は単独過半数をとらないといけないという候補者一人ひとりの断固たる戦う意思に国民が共感し、支えてくれた。それでも、二三九議席と過半数には届かなかった。いま自民党自身に、単独で過半数を取らせてほしいという覇気がない。ただ、勝たせてくれ、というだけだ。国民も、『衆議院で勝っても、参議院は過半数がない。どうせ自公でやるんだから単独過半数などなくてもいいではないか』という雰囲気がある。解散・総選挙の時期は、そう遠くないという前提があるのに、前回の総選挙を迎えるときの盛り上がった気迫が、いま党内にない」
最大のテーマは党の路線問題
白川勝彦は、今秋の総裁選の最大のテーマに、自民党の路線問題も浮上してくると考えている。
「総裁選は、自民党をどうするのか、日本をどうするのか、ということもふくめて議論することになる。小渕総裁の自自公路線が、本当に自民党のためにいいのか、日本のためにいいのかを議論することになる。党員も、大きな関心を寄せている。そのことが論じられなければ、総裁選の価値はない。経済政策の問題も大事だ。が、連立の問題・党の路線問題は、わが党の命運を決するかなり重要なテーマの一つだ」
マスコミは、近い将来、自自連立に公明党をくわえた自自公連立体制になると報じている。しかし、白川は、自公連立がどのような意味をもつのか、党内で真剣に議論しなければいけないと考えている。
「自公連立の話し合いのなかには、かならず選挙制度の改革、つまり中選挙区復活という問題が出てくる。このことを抜きにして、公明党が自民党と政権議をすることはありえない。仮に自民党執行部が、『できる、できないは別として、検討してみます』と答えたとすればどうなるか。そのとたんに三〇〇選挙において、自民党候補者の後援会もしくは選挙基盤は大変な影響を受ける。そのことをだれも気づいていない」
白川は、説明する。
「中選挙区時代は、複数の自民党候補が激しくぶつかってきた。それぞれの後援会も敵対した。が、小選挙区となり、当選者は一選挙区に一人となった。候補者は、それまでライバルであった候補の後援会を束ね、複数の後援会の合体のなかで戦っている。ライバル候補の後援会も、たった一人となった自民党候補を応援するため、いわばルビコンの橋を渡るような思いで一つにまとまった。それなのに、『中選挙区復活もありえる』という話が出てきたらどうなるのか。必死の思いでまとまったのに、『かつての候補者の後援会としてまとまらないといけないのか』という疑心暗鬼が生まれてくる。われわれは、小選挙区導入以来いろいろな障害を乗り越えて、小選挙区での選挙を戦える政党になろうと懸命にがんばってきた。それが、『中選挙区復活』という雰囲気をにおわせたり、ほのめかしたとたんに、それぞれの選挙基盤に大きな活断層が生じ、総体的に自民党の力が弱まってくるのは明らかだ。そのような状態で、自民党は選挙を戦えるのか」
そんなに気をつかわなければならない連立のパートナーとは
白川は、公明党に妙な遠慮をすることはないという。
「自公になれば、そのぶん創価学会が自民党候補を応援してくれる、という意見もある。しかし、これも疑問だ。公明党の支持母体である創価学会は、候補者の支援はA人物本意Sだとしている。つまり、自民党候補を応援する選挙区もあるが、民主党候補を応援する選挙区もあるということだ。これは、おかしな話だ。ある選挙区では、野党を一所懸命応援する政党を、なぜ連立のパートナーといえるのか。が、そう思っていても正面切って意見をいえない。批判すれば、創価学会は対立候補を応援するのではないか、と臆病になっているのだ。そんなに気を使わないといけない連立政権のパートナーは、いるのだろうか。連立政権のパートナーというのは、政権運営でも選挙でも苦労を分かちあうものだ。それに自民党支持者のなかには創価学会にアレルギーを持つ人も多い。『公明党と連立を組むなら、いままでのように自民党の候補者のために力を出しません』という人も出てくるだろう。先の都知事選でも、公明党が推し、自民党が推薦した明石康候補が惨敗したではないか。それとおなじような現象が随所におきてくると思う」
国会対策上の自自公路線では安直すぎる
白川は、国会対策のことだけを考えて進めようとしている自自公路線は安直すぎるのではないかと考える。
「国会対策上、小渕首相のためにはいいことかもしれない。が、自民党は小渕首相のためにあるわけではない。自民党は、参議院では過半数はない。が、いずれは過半数を取る政党になろうとみな必死になってがんばっている。単に数が足りないので公明党と組むというのでは、逆に過半数を取るための基盤を壊しているようなものだ。いまの状況では、楽かもしれない。が、その劇薬を飲むことによって、体力が弱り、自民党は二度と立ち上がれなくなる。そのことを考えないといけない。
小渕首相は、どのような長期的な展望を考えているのか。自自連立は、幹事長会議など時間をかけて決めた。自公連立は、それ以上に時間をかけて議論しなければいけない問題だ」
その意味でも、今秋の総裁選の最大のテーマに、自民党の路線問題も浮上してくると考えている。小渕の「自自公路線」に対し、加藤は「自公路線」を否定して戦うのか。
森喜朗幹事長が、早々と小渕再選支持を言明したことについても、白川は首をかしげる。
「自民党には、形式上の選挙管理委員会がある。が、実際に総裁選を取り仕切る要は、幹事長だ。その幹事長として総裁選は党のためにならない、といったとすれば、その見識を疑わざるをえない。森派の会長としての森さんが誰を推すかなどということは、総裁選がはじまってからいえばよいことだ。森幹事長が出馬しないと表明してから、森幹事長の存在は急速に薄れつつある」
現在のところ小渕派、森派、村上・亀井派が小渕再選支持を表明し、小渕有利と伝えられている。が、白川は、この状況のまま総裁選に突入するとは思っていない。
「小渕内閣の支持率は上がっているが、このまま維持できるかどうかが、まず大きなポイントだ。新聞記者の話では、サミットの開催場所を沖縄に決めたことが好感をよんでいるという。むろん、野党のふがいさなも支持を集めている理由のひとつだ。
しかし、内閣支持率などというものは、いつどう変わるか何ともいえない」
総選挙に向けて、候補者はみな小渕の人気はどの程度のものなのか、冷静に考えているという。
「選挙用のポスターにしても、小渕さんと自分の顔がいっしょにならぶ写真で選挙ができるかと考えている。前回の総選挙では、橋本さんと握手しているポスターが全国のいたるところに貼られ、リーフレットが大量に配られた。いま、そのようなリーフレットが全国に配付されているのか。小選挙区制の選挙は、党首のイメージの持つ意味が大きくなった。小渕党首のもとで総選挙を戦い抜けるか、小渕党首と一心同体となって死ぬ覚悟になれるかどうか、そこのところをじっくりと考えるのではないか」
チャレンジすることが大事だ
さらに、現在の総裁選は、かつてのように永田町の論理だけでは決まらないという。
「総裁選は、全国三一〇万人の党員を巻き込んでおこなわれる。しかも、直前に選挙を控えた国会議員の微妙な心理をふくめれば、チャレンジャーにも分がある、と信じながらチャレンジしていかないといけない。加藤さんは、党内第二派閥の領袖だ。しかも、幹事長を三期もつとめ、それなりに実績をあげてきた。国会議員も、党員も、みな小渕さんがいいのか、加藤さんがいいのか、真剣に考えるだろう。いや、考えなければ、自民党が笑われてしまう。
小渕さんは、総裁選を迎えるまでにどれだけ仕上げるか。それは、小渕さん自身の努力だ。しかも、こっちは足を引っ張るつもりはない。直前までは、支持するといっている。が、そのことと選挙は別だ。どうも総裁選をおこなうことが悪いようなイメージでとらえられるが、冗談ではない。党員のなかからも、よくぞ立ってくれた、と加藤さんに大コールがおきてくるにちがいない。大相撲にたとえるならば、横綱の小渕さんと筆頭大関の加藤さんが、優勝をかけて千秋楽でぶつかる。
どちらが勝つにしても、大きな注目を集めている。とにかく土俵に上がらなければならない。今回は勝ち目がないので土俵に上がらないなどといって、不戦敗をつづける人には魅力がなくなってしまう」
(後略
)
1999(平成11)年9月の自由民主党総裁選がどうなったか、そして、現在の加藤代議士の政治スタンスなどについてはあえて触れません。小渕首相をはじめとする現自民党執行部がその場しのぎの言動をしているのに対し、私たちが長期的展望をもって事にあたっていることだけは、きっと理解していただけるものと確信しております。
加藤代議士の総裁選に臨む決意・抱負・自自公連立などについては、本書に収録した月刊『政界』平成11年10月号に掲載された「小渕流『無の政治』への挑戦」(66頁以下)をお読みください。
わが闘争――第二ラウンドの展開
「サンデー・プロジェクト」のわずかに20分足らずの私たちの発言の反響は、きわめて大きいものがありました。私の「自公連立は、憲法違反」という話をもっと知りたいという要望が多数ありましたので、1995(平成7)年に発表した論文をもとに書き下ろしたのが「自公連立内閣は、憲法二〇条に違反する」です。これを5000部つくって、国会議員、関心がある方々や私の後援会に配布しました。
そうこうするうちに、公明党の神崎代表や冬柴幹事長が私の名をあげながら直接間接に私の論文に対する反論をされました。それらを最終的に集約したのが、1999(平成11)年8月31日~9月3日付の『公明新聞』に載った冬柴幹事長のインタビュー記事でした。公明党は、これらをもとに『誤れる「政教分離」論を糾す』と題するパンフレットを例によって大量に作成して配布しております。このパンフレットでも、冬柴幹事長のインタビューがメインで載っております。
このなかで私が名指しであげられていますので再反論をしようと思いましたが、丁度そのころ『週刊仏教タイムズ』からの対談の申し込みがありました。この記事は、私がいったことをきわめて要領よくまとめてくれました。ここに、冬柴幹事長があげた私の見解に対する反論の主要な部分について、私の再反論が載っています。あえて論文は書く必要がないと思いました。それは現在も同じです。このインタビュー記事を「政教分離原則を確認する」として、本書にそのまま掲載しました。
私の再反論について、創価学会=公明党からいまのところまとまった「再々反論」はありません。その代り、私をはじめ俵孝太郎氏や四月会を誹謗中傷する記事がこのところ連日のように『聖教新聞』等に載っているようです。また、公明党のWebサイトにも同様のものがいっぱいありました。こうした攻撃は、最初のうちはあまり気分のよいものではありません。しかし、同じようなことを何回も繰り返されるとだんだん鈍くなり、現在では他の人から記事が載っていましたよといわれても、現物を取り寄せる気もしません。『聖教新聞』などの読者だって同じような気持ちだと思います。しかし、このスタイルだけは、私の知るかぎりこの十数年まったく変わらないのです。
創価学会=公明党問題の先駆的な論客である内藤國夫氏は、1999(平成11)年7月8日に逝去されました。内藤氏もずいぶんヤラられました。現在は、俵氏や私をタタいています。しかし、政教分離問題や創価学会=公明党問題に対する国民の理解は、以前よりもはるかに進んでいるのです。
自公連立に反対する動きは、自由民主党の国会議員のなかでも着実に拡がっているのです。私をタタけばタタくほど、かえって多くの人々は創価学会=公明党の異常な体質に気づき、反発を強めるだけなんです。俵氏だって同じことです。俵氏は、ほとんどの政治評論家が自由民主党をバッシングしたときでも一貫してわが党に対して温かい理解を示し、叱咤激励する質の高い評論をしたことを自由民主党の国会議員は皆知っているんです。わが党の大会で祝辞を述べた政治評論家は、近年では俵孝太郎氏を除いて他にはいないのではないでしょうか。それでも、やりたければおやりになればいい。俵氏は何十年も同じようなことをやられ、私もこの数年間同じようなことをやられていますから免疫があります。私たちは木魚ではありませんが、私たちをタタく音が国中にこだまして、政教分離問題や創価学会=公明党問題を考えるきっかけになればもって瞑すべしと思っています。
我が闘争――第二ラウンドの今後
自自公連立の命運は、政治的に少し将来を見通せるものにとってはそう難しいものではありません。「自自公連立の政治論的批判」で詳しく述べるように、これだけの矛盾と問題を内包する連立内閣が長く続くはずがありません。これを延命させるためにいろいろな努力がなされるでしょうが、ダメなものは所詮ダメなんです。どんなに長くても、2000(平成12)年10月以前に行われる総選挙までの運命です。
だから、こんなものを恐れたり、怖がったりすることはまったくないのです。私たちは臆することなく、堂々と己の信念に従って行動すればよいのです。自自公連立など、数は多いものの少しも恐れることのない「張子の虎」であり、「裸の王様」にすぎないのです。
2000(平成12)年2月、自由民主党の国会議員によって「政教分離を貫く会」が設立されました
(注 ─ 政教分離を貫く会に関することは、旧サイト内のございます)。私も、代表発起人の一人として名を連ねています。この会に所属するものは断じて落選させよというのが、池田大作創価学会名誉会長の指令だそうです。
この「政教分離を貫く会」の代表世話人になることを内諾していた人が、関係者から種々工作されて辞退するという事態が数件ありました。政治家にとって「落選」という二文字は、抹殺と同義語であります。私は寂しくは思いますが、こうした人たちを責める気はありません。政治家には票を、企業人には金を、生活者には現世の功徳をちらつかせて、脅かしたりすかしたりする集団を私は健全な宗教団体と呼ぶ気にはなれません。
解散・総選挙は、そう遠くないうちにあります。私たちは創価学会=公明党に抹殺されないようがんばりますが、健全な良識ある有権者の力なくして勝ち抜くことはとうていできません。相手方は、教祖ともいえる人の指令によって死にもの狂いの攻撃を仕掛けてくるでしょう。健全で良識ある皆さまにも、健全で良識的なやり方で結構ですから、性根をすえた迫力ある応援で私たちを護っていただきたいと思います。私たちの戦いは、思想・良心・信教の自由を守る聖なる戦い(ジハード)だからです。
誰がために鐘はなる
― 問われているのは、国民の自由!
自自公連立の批判は、結局のところ「政教分離の原則」にゆきあたります。また、政教分離の原則をしっかりとふまえない議論は、ご都合主義になってしまいます。きわめて残念なことですが、1994(平成6)年に自由民主党の国会議員によって設立された「憲法二十条を考える会」がそのよい例だと思います(「憲法二十条を考える会」については、先にupdateしておいた「」をご覧下さい)。
民主党内に「政治と宗教を考える会」が設立されました。私は、同会の熊谷弘代議士に面談し、かつての自由民主党の「憲法二十条を考える会」と同じ道だけは歩まないでほしい旨伝えました。熊谷代議士も、そのようなことはしないということを確約してくれました。このことさえしっかりしていれば、私たちの「政教分離を貫く会」と、「政治と宗教を考える会」は、党派を超えて連動することはありうると思います。
宗教界も、四月会だけでなくいままでよりも幅広い層が結集しつつあります。そして何よりも、幅広い国民が政治と宗教との関係について私たちと同じ考えを持ちはじめました。私は、そういう意味で楽観しています。
一つだけ危惧することは、政治と宗教の関係すなわち政教分離の問題というと、それは宗教団体や熱心な宗教者の問題だろうという風潮です。本論のなかでも繰り返し述べておきましたが、自自公問題とは、憲法一九条と二〇条の問題なのです。
改めて原典を確認しましょう
日本国憲法第一九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第二〇条第一項前段
信教の自由は、何人に対してもこれを保証する。
この二ケ条の問題なのです。政教分離や検閲の禁止等の諸規定は、これを担保するために設けられたものです。「思想および良心の自由」と「信教の自由」の境界を、確然と定めることは不可能です。それは、両者が不可分だという証左です。ここのところをよく理解してもらえれば、自自公問題や政教分離問題に無関心でいられるはずがないのです。この問題は、創価学会と他の宗教団体の争いだなどといってられないことが理解していただけると思います。
自自公連立との戦いは、国民の自由を守る戦いなのであります。この戦いが、現在300の小選挙区で行われています。この戦いをしている全国の同志にとって、いささかでも資することになれればと思い、本書を緊急に出版することにしました。
ご一読、ご批判、ご高評を賜ることができればこれにすぐる喜びはありません。
2000(平成12)年2月11日新潟県上越市北城町の自宅にて
白川勝彦著
二刷にあたっての追記
幸いにも本書は多方面から多くのご要望をいただき、二刷をすることになりました。わずか二週間ですが、大きな情勢の変化もありましたので、Ⅲ章二の4の「『政教分離を貫く会』を設立」の部分に加筆し、またⅣ章の「永田町徒然草」に追加をしました。
(平成一二年二月二五日 著者記す) |