HOME > 白川文庫 [l] > カツヒコ・アラカルトTOP [f] > 11月号TEXT版 | 画像版 [r]
FORUM21 2009年11月 通巻166号
閻魔帳
何故に政教分離なのか
白川 勝彦 元衆議院議員・弁護士
私はあまり則価学会と関わり合う環境で生活したことがなかった。創価学会・公明党と関わり始めたのは、平成5年自民党が初めて野党に転落し、細川非自民連立政権が成立した直後であった。細川非自民連立政権には、当然のこととして公明党が参画していた。何故か急に自民党の中で則価学会・公明党に関する勉強会ができた。ひとつは島村宜仲衆議院議員(当時)が中心になって始めた勉強会だった。確か「民主政治研究会」とか言った。もうひとつは亀井静香衆議院議員(現金融政策・郵政民営化担当大臣)が中心になって始めた「憲法20条を考える会」であった。
このふたりが何故このような勉強会を始めたのか、立ち上げに参画していなかったのでその理由を私はよく知らない。島村氏が始めた「民主政治研究会」は、創価学会問題に深く関わった人たちを呼んでいろいろな話を聴いた。私はそれまで創価学会・公明党問題を深く考えたことがないので、かなり独断的な主張もあったが講師の話はそれなりに面白かった。亀井氏が始めた「憲法20条を考える会」の方は、反則価学会勢力を集めることに力点があったようである。平成5年秋頃、亀井氏から声をかけられた際、私は亀井氏が精力的にやっている“憲法20条”のどこを考える会なのか、正直いって分からなかったので尋ねた。亀井氏は端的に答えてくれなかったような気がする。
細川・羽田“非自民"内閣が倒れた時点において、則価学会・公明党問題はまだ政局の中心的な争点でなかった。創価学会・公明党問題が政治の中核的争点となったのは、衆議院議員選挙に小選挙区制が導入されて、反自民政党が“新・新党"を模索し始めた頃からである。当時いくつかの新党が誕生していた。小選挙区制の一方の雄として誕生する新党であったので、それまでに誕生した新党と区別する意味で“新・新党"と言われていた。そして平成6年12月誕生したのが新進党であった。呼び名は、奇しくもどちらも“シンシン党"であった。
政教分離問題がわが国の政治の場において現実問題として真剣に議論されるようなったのは、公明党と政権の関わり合いであった。新進党時代においては、公明党の政権参加はまだ可能性の問題であった。公明党が実際に政権参加を果たしたのは、自民党と連立した時であった。ところが肝心なその時点において、創価学会・公明党問題を厳しく追及してきた自民党の政治家は、ほとんど沈黙してしまった。最後まで反対したのは創価学会・公明党問題について新参者であった私をはじめとするほんの一握りの人間であった。
私が政教分離問題を真剣に考えたのは、自由主義という観点からであった。私はひとりの自由主義者として、政教分離問題をいい加減にすることはできなかった。自公“合体"政権が誕生して10年、わが国の自由な風潮は呆気なく減んでしまった。私の予感・考えは間追っていなかったのだ。国民は肌でこのことが分かり、総選挙で自公“合体"政権にノーを突き付けたのだ。
自公“合体"政権は何のセレモニーもなく解消されたが、公明党はまだ国会に存在している。公明党はこれからも政権への参加を模索し、何かと暗躍するであろう。政教分離問題についてどのように考え、いかなる理由で公明党の政権参加に反対するのかを明確にしなければ、わが国の政治は混乱することになるであろう。
間違った歴史は、繰り返さない方が良い。