北京オリンピックと政治
08年08月24日
No.909
北京オリンピックは、今日で終わる。私が知っているオリンピックは、やはり東京オリンピックからである。アベベが初優勝したローマ・オリンピック(1960年)やメルボルン・オリンピック(1954年)のことは多少の記憶があるが、東京オリンピック後のオリンピックに比べれば段違いである。それは主として私の年齢によるものであろう。北京オリンピックは、私が知っているオリンピックの中で最も政治的なオリンピックである。
1980年のモスクワ・オリンピックはいうまでもなく政治的なオリンピックであったが、ソビエトのアフガニスタン侵攻に抗議して西側の多くの国々が参加しなかった。そのためにソビエトの思惑どおりの政治的なオリンピックにはならなかった。あまりに政治的な思惑が先行すると、実は政治的なオリンピックにならないのである。それが政治というものである。ヒットラーの政治的野望をかけたベルリン・オリンピックになると、私が生まれていなかった時代のことなので何ともとも言えない(笑)。
中国という国は、政治的な思惑を抑えて北京オリンピックを開催するほどまだ政治的にも経済的にも成熟した国ではない。中国が歩んできた近代と現代の歴史を知っている者にとって、それは無理もないことだと理解できる筈である。中国政府は、最初の聖火リレーでそのことを知らされたと思う。中国が普通の国だったら、そもそもあれほど派手な聖火リレーなど思い付かなかったであろう。見物人を排除してでも、聖火リレーをそれでも続行するところがいかにも“中華民族”らしいところだ。
白髪三千丈の国である。中国風にいえば、1000里の道は999里の道をもって半ばとするだ。今日大きな事件が起きなければ、北京オリンピックは大成功である。私は隣人としてそのことを心から願っている。今日は久々の休みなので、テレビで北京オリンピックをできるだけ観ようと思っている。できるだけ政治的な思惑を露出しないことが、政治的な成功を本当に収められるのである。政治的に成長するとはそういうことなのだ。そろそろ中国政府は、そのことを知っても好いのではないか。
一方、他の国も北京オリンピックを政治的に意識し過ぎたのではないか。いったい何ヶ国の首脳が開会式に出席したのだろうか。中国政府の必死の要請もあったのだろうが、開会式に大勢の首脳が打ち揃って訪中するというのもセンスがなさ過ぎる。他の国の政府も、意外に“高度な政治的判断をするシステム”がないのかもしれない。そうだとしたら国際政治というものも、危ういものである。私たちは、このことを肝に銘じておいた方が良さそうである。
自公“合体”政権に“高度な政治的判断をするシステム”がないなど言わずもがなのことであろう。福田首相も開会式に出席するために訪中した。胡錦濤国家主席に挨拶をした。それはそれで構わないのだが、わざわざ日中首脳会談までセットした。そして餃子問題をわざわざ協議した。餃子問題は大切なことだが、中国の外交日程が立て込んでいる開会式当日というお目出度い日に拙速にわざわざ協議することではないだろう。要するに福田首相は全体を読めない総理大臣なのである。
北京オリンピックがわが国の政局に齎した効果は、福田首相の党と内閣の改造を吹っ飛ばしてしまったことである。福田首相の“最後の切り札”だった筈の改造人など、今となってはまったく意味がない。国民は“改造”があったことすら忘れているのではないか。可哀想なのが麻生太郎自民党幹事長である。本人としては両刃の剣であることを覚悟して幹事長を引き受けたのであろうが、北京オリンピックで国民は麻生幹事長のことなど忘れてしまっている。北京オリンピックがわが国の政局に及ぼす影響を考えられないようでは、政治的感度が鈍すぎるとしか言いようがない。まぁ、そういうことである。
それでは、また。