“一雨”とビニール傘
08年07月30日
No.885
昨晩、大学時代の友人と食事をした。酒も程々に呑み、うな重を食べて“さぁ、帰えろうか”と外に出たところに、夕立がきた。とても傘なしで駅まで行ける降りではない。近くの薬局で傘を売っていたので、友人はこれを買った。ちょうど近くにタクシーが停まっていたので、私はこれに飛び乗った。雨が降ったからと傘を買っていると、家に傘が溜まってしょうがない。
もちろん1本350円の傘を買って駅まで歩いて、電車に乗って帰った方が安上がりである。しかし、こういうことをしていると傘がどんどん家に溜まっていく。数えたことはないが、わが家にも30本近くの傘があると思う。少しずつ整理をしたいので、気象情報で雨が降るでしょうというと、最近私は面倒だが傘をもって出かけることにしている。もちろん帰りに雨が降っていないと傘をもってきたことなど忘れてしまう。だから事務所にはだいぶ傘が溜まった。こうなると事務所と自宅の両方に傘があることになるので、安心だ。
新橋から自宅まではたいした距離でないので、家に着いた時まだ雨足は強かった。小さい傘だと駅から自宅まで歩く間に、ズボンと靴がどうしても濡れてしまう。傘を買うよりタクシーに乗った方が高いことはもちろんである。私は、ズボンや靴が濡れるのが嫌いだ。だからタクシーに乗ったことはそんなに損をしたとは思わない。だが、友人の住んでいるところは郊外である。彼が乗った電車が駅に着いたころには、雨はきっと上がっていたと思う。そうすると友人が買った傘は、新橋駅までのわずか100メートルの間しか役立たなかったことになる。
友人が傘を買ったとき、私も買おうかと思った。たまたま近くにタクシーが停まっていたので、10メートルくらい友人の傘に入れてもらいタクシーに乗り込んだ。私のこの行動は経済学的に馬鹿げているのだろう。私もそう思わなくもない。しかし、私はちょっと雨が降ったからといって傘を買うことに心理的抵抗があるのだ。私たちの世代にとって、傘は高価な物であった。だいいち、私が小学生の頃、コウモリ傘など普通の家にはなかったような気がする。番傘がほとんどであった。大きな番傘を差して学校に通ったことを記憶している。破れた傘もあった。傘が破れると、油紙を貼って修理したものである。
中学生になると布のコウモリ傘が普通になってきた。コウモリ傘の骨は折れる。ときどきコウモリ傘直しがわが家にもきた。家には沢山の人がいたので何本かが修理された。透き通ったビニールの傘が出回るようになったのは、いつごろからなのであろうか。あまり確かな記憶はない。私は最初からビニールの透き通った傘をあまり好きになれなかった。小さいことが、だいいち気に入らないのである。私のように肩幅が広く、大股で歩く者はどうしても濡れてしまう。それに、昔のビニール傘は直ぐに壊れた。紙と竹で作った番傘の方が、よほど丈夫だった。私には少し傘に拘りがある。永田町徒然草No.567「愛用の傘・考」をお読みいただければ幸いである。
それにしても昨夜の雨は相当の“一雨(ひとあめ)”だった。あれだけの雨が降っていれば、樹木はしばらく息をつけるだろう。待望の雨が降ったのだから、かなり涼しくなると思っていたのだが、外からの涼しい風は、あまり吹き込んでこない。それでもいつもよりは涼しい。この微妙な差を楽しめるようにならないと、これからは生きていけないような気がする(笑)。昨日テレビ東京の『ガイヤの夜明け』で省エネ家電について放送していた。省エネ家電も大事だが、私がいつもいっている way of life を身につけた省エネ人間になることを、真剣に考えなければならないと思うのだが…。
それでは、また。