自然体で考える。
08年07月09日
No.864
洞爺湖サミットの2日目の協議は成果があったのだろうか。私は地球温暖化問題について基本から勉強していないので、その評価は控える。しかし、CO2削減に反対している訳ではないので、いろいろと喧伝されていることはできるだけ尊重することにしている。CO2削減に少しでも疑問をもつと、“国賊”や“人類の敵”とする風潮には賛成できない。それよりももっと説得力のあるキャンペーンをして欲しい。
それにしても東京の地下鉄の警備は物凄いの一語に尽きる。ひとつの駅でいったい何人の警察官がいるのだろうか。警備服で身を固めた警察官が二人一組で、7~10組はいる。JRや車であまり移動しないので、そちらの事情は分からない。昨日、私は忙しかった。疲れて家に帰るとき、心なしかメトロで警備している警察官も疲れているように見えた。真面目に仕事をしている警察官を茶化すつもりなど毛頭ない。しかし、彼らも意思をもった人間である。実際にやっていれば、この警備が果たして意味があるとは思っていないのではないか。
昨日、私は今年初めて半袖シャツで事務所に向かった。もちろんノーネクタイである。やはり過ごしやすい。夕方などは少し涼しいくらいであった。暑い日は半袖に限る。ノーネクタイで礼を失する場合には、紐のネクタイがよいと思うのだが、最近あの紐ネクタイをあまり見かけない。かつては私も持っていたが、いまは持っていない。何処かで売っていたら、買ってみるつもりだ。高温多湿な日本の夏で、背広とネクタイはどだい無理なのだというのが昔からの私の考えである。CO2削減などといわなくても、無理なことはしない方がいい。あまり気取らず、自然体でゆきたいものである。
私はCO2削減理論で自分を動機付けるよりも、way of life の理論で己を律したいと思っている。その方が長続きするように思うからだ。その方が哲学的であるし、情緒的である。私は哲学や情緒の方が理論よりも人を動かすと思っている。この辺が政治的人間である所以なのであろう。私は近代的・現代的なモノにそれほど価値をおかない。私は子供の頃に体験した非現代的モノをそれほど惨めだと思わないのである。近代的・現代的なモノにそれほど価値を見出せないのである。point of view を変えれば、非近代的・非現代的なモノの方に味わい深いモノがある。価値を感じられるモノがある。懐古趣味でそういっているのではない。素直な実感でそう思えるのである。情緒的な言い分であるから、この位にしておこう。
それでは、また。