福田機長の危険な“逆噴射”
08年03月05日
No.727
永田町徒然草に何を書こうかと考えているとき、NHKスペシャルの『激流中国』を観た。午前0時10分から始まった。45分くらいの番組であった。もちろん再放送であるが、久々にいろいろなことを考えさせられた。『激流中国』は確かシリーズでいろいろなテーマを放送している。正直いって私はほとんどこれを観たことがなかった。
今回の番組は『上海から先生がやって来た』という題名でボランティアで貧困県に先生として派遣されたある大学院生がみた農村と教育の現状を扱っていた。貧困県というのは月収が1000円程度の貧しい農村のことをいうのだそうだ。中国政府は、貧困県が全国に600箇所あるといっている。その女子大学院生の体験を密着取材した番組であった。この女子大学院生は上海の恵まれた家庭で育ち、両親と同居していた。
ある女子中学生の家庭の経済状況と勉強特に進学がテーマであった。率直にいってその貧困さは深刻であった。もちろん45分のテレビ番組の情報を私の拙い筆で伝えることはできない。もしこういうものをインターネットで観れればいいのだが、多分NHKはそこまでのサービスをやっていなのではないだろうか。各テレビ局が“地デジ”の宣伝をしている。デジタル放送ならば、インターネットで観れるようにすることは原理的には簡単なのであるが、そのようなインターネット配信サービスをやるかどうかは、“皆様のNHK”の判断による。
私がここでいいたいことは、わが国もほんの少し前にはこの番組が放映していたように非常に貧しかったということである。貧困の度合いを絶対的尺度で表現するものがあるのかもしれないが、なにしろ経済の門外漢であるから私は知らない。極度の貧困は、過酷である。人々の人間性すら奪ってしまう。私が知っているのは昭和20年代後半の新潟県の地方の現状である。現在からみれば、それはかなり厳しい状態であった。私は直接みたわけではないが、大人たちから聞いた話によればそれ前はもっと厳しい状態だったという。
当時の状態から遡ると、それがどのようなものであったかは容易に思い浮かべることができた。現在の若い人たちにそれをいくら話しても頭に思い浮かべることすらできないと思う。実感することはできないだろう。だから私はわが国の極めて貧困な時代を知っているというのである。それは上記番組で観た中国の貧困県の現状と、質的にそう異なるものではなかった。私がある程度知っているわが国の貧困も、江戸時代に遡ればよりマシなのであろう。だから貧困を表現する絶対的尺度というものがあればもっと正確に記述することができるというのだ。しかし、仮にそのような絶対的尺度があったとしても、恵まれた人々がその貧しさを実感することは難しい気がする。
ある国や社会が貧困から脱却することは、非常に困難なことである。私の時代にある経済学者が経済の発展段階をあるパターンで表現していた。その学者は“テイクオフ”という時期があるといっていた。経済の発展を飛行機に例えれば、飛行機が飛ぶためには当然のこととして“テイクオフ=離陸”があるのは当たり前のことである。そんなことを さも尤(もっと)もらしくいう経済学に私は興味を感じられなかった。どうしたらテイクオフできるのかということを知りたかった。私が経済ではなく政治にのめり込んでいったのは、できるかどうかは別にして、テイクオフは政治の力によってしかできないのだろうと考えたからである。
わが国の経済は、幸いにもテイクオフした。私たちが育った時代は、まさにテイクオフの時代であった。GDPが世界第二位になったのであるから、そのテイクオフは上手くいったのであろう。それが誰の手により、どうして可能だったかを分析することは私の手におえる筈がない。自民党が政権をもっていたからだなどというつもりはさらさらない。私はそういう演説を自民党の国会議員としていったこともない。
しかし、離陸に成功した飛行機が大気圏、成層圏を突き抜けて宇宙の彼方まで飛んでいけるものでもない。いったん離陸に成功した飛行機は、永久に上昇するというものでもないだろう。もしそうだとしたら、飛行機事故などない筈だ。それに着陸できない飛行機では、乗る訳にもいかない(笑)。コンピュータに制御された最近の飛行機は、離陸も航行も着陸も人手のよらないで全部できるという。
だが、経済の離陸や航行や着陸はそうはいかない。もしそれが可能ならば、コンピュータの本家本元のアメリカ経済が今日のようになることはないだろう。経国済民(けいこくさいみん)は、コンピュータではできない。しかし、絶対に犯してはならない原理原則はあると思う。自公“合体”政権は、この原理原則を平気で犯している。順調に飛行していた“日本機”は乱調している。乗客(国民)は気分が悪くなってきている。このままだと高度は確実に落ち、墜落するかもしれないという不安が一部の乗客の間に生まれている。
その不安を乗客が訴えているのに、機長は大丈夫といっている。乗客の目にも高度が明らかに下がっているのに、「大丈夫、大丈夫。もう少し様子をみましょう」としかいわない。あまつさえ、危険な操縦を平気で行う。地方が疲弊しているといいながら、地方から多額の税金を取って、これを豊かなところにもばら撒くという。豊かな人々や地域から税を取って、貧しい人々や地域に使うという操縦方法はある。税の“再配分機能”という国際的に確立した手法である。この逆の操縦術など聞いたことがない(永田町徒然草No.695「地方が5倍支払っている!」を参照)。
かつて羽田空港で“逆噴射”という間違った操縦をして、ジャンボジェット機を墜落させた機長がいた。飛行機の操縦として逆噴射がなぜ間違っていたのかは記憶していないが、流行語となったことは確かである。今回のガソリン税の暫定暫定税率の延長は、税の理論としても政治の原則に照らしても“逆噴射”であることは明らかである。乗客の代わりとしてコックピットに乗っている副操縦士は、狂った機長の“逆噴射”を体を張っても止めさせなければならない。明らかに間違った操縦を阻止することは、野党という副操縦士の義務であり責任だ。副操縦士も乗客の身を守らなければならない“操縦士”なのである。
それでは、また。