マリアのためならまだ戦える!
07年12月13日
No.642
昨日の午前中、私は締切りの迫った原稿を書いていた。かなり根をつめてやっていたのが、午後2時近くになるとさすがに腹が減ってきた。妻が用意していてくれた昼食をテレビの前のテーブルに並べ、テレビのスイッチを入れた。くだらない番組しかやっていなかった。いちばん最後の12チャンネル(テレビ東京)にきたとき、どこかでみシーンが飛び込んできた。ほどなくゲリー・クーパーが映った。あぁ、これは映画『誰がために鐘が鳴る』だと直ぐに判った。
映画『誰のために鐘が鳴る』を最初に観たのは、映画少年だった高校生のときだと思う。私が高校に通っていた新潟県十日町市(人口5万人)には3つの映画館があった。そのひとつは、洋画専門館だった。そこで観たのだと思う。高校時代の私がヘミングウェイのこの作品の思想性や文学性を知っていたわけではない。あくまでも映画雑誌などで知っていたにすぎないのだと思う。ゲリー・クーパーはジョン・ウインと並ぶスーパースターだった。その程度の認識で観たのだと思う。それでもなぜか強い印象を受けた。西部劇などとは明らかに違った映画として記憶に残った。
2度目に観たのは、大学の近くの下北沢の映画館だったと思う。その頃には、この映画の時代設定や政治的背景も多少は知っていた。さらに印象に残る映画となった。もう1回くらいは観ていると思う。それがどこであったかは思い浮かばない。しかし、3(?)回とも映画であった。だから字幕である。昨日放映された『誰がために鐘は鳴る』は、吹き替え版であった。だから字を見る必要はない。それだけにこれまで観た中でいちばん画像とストーリーに集中できたような気がする。私が洋画をあまり好きになれないのは、言葉の問題である。字幕を読むのが苦手なのである(苦笑)。
逆に吹き替え版だとちょっとピンとこないところもある。ロベルトとマリアの会話などは、日本語で聴くとちょっと面映い。日本人には、ああいう会話はとてもできない。それを日本語で聴くとちょっと落ち着かないのである。ああいうところは、英語の方が自然に入ってくる。それは、まぁ贅沢というものであろう……。今回私がいちばん感動したのは、重い傷を負ったロベルトが薄れゆく意識のなかで「そうだ。マリアのためならまだ戦える」といって、橋を爆破したゲリラ(ロベルトもその一員)を追撃してくるファシスト軍に対し機関銃で応戦する最後のシーンであった。ロベルトは“アメリカのため”とか“共和国のため”では薄れゆく意識を取り戻し、機関銃の引き金を引くことができなかった。“マリアのため”なら文字通り死力を振り絞ることができたのだ。ここが新鮮であった。ヘミングウェイの高い思想性と文学性はここにある。
ヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る』が発表されたのは、1940年だという。映画『誰がために鐘は鳴る』ができたのは、1943年だ。まだ第二次世界大戦の真っ最中である。その時代にこの小説と映画がアメリカで発表され、アメリカの大衆の心を掴んだことに私は注目したい。ファシズムとの戦いは、第二次世界大戦の大命題であった。当時のわが国は世界中が打倒しなけれならないとしたファシズムの国だったのである。その歴史認識が必要なのだろう。イタリアやドイツや日本のファシズムは、国家体制として実在した。現在問題となっているテロは、果たして国家体制として実在しているのだろうか。新テロ特措法案の最大の問題は、私はここにあると思っている。
今日は政治的に大事な1日になる。与野党幹事長会談などが行われる。大阪高裁で薬害C型肝炎訴訟の和解案も出る。注目しなければならない。それでは、また。