災害と人間
08年05月19日
No.812
四川大地震の死者が3万人を超えたと新華社が報じたという。今後さらに増えるのであろう。阪神淡路大震災の死者は6000人強であった。私たちの想像を絶する死者である。時間があったので1923年(大正12年)9月1日の関東大震災について調べてみた。関東大震災の死者・行方不明者は14万2800人だったという。自然の大災害の前には、人間など為す術がないのだ。
85年前わが国でも四川大地震を超える死者・行方不明者のあった大地震が起こったのだ。四川大地震は決して他所事ではないのである。関東大震災の時、多くの朝鮮人が殺害されてことは歴史で学んでいた。詳しくは貼り付けておいたWikipediaを読んで頂きたい。自然の大災害の前には、人間は無力であると同時に愚かにもなる。人類は災害に襲われても、そこから逞しく立ち直ってきた。人間は非力で儚いが、逞しくもある。
中国のテレビ映像が放映されている。温家宝首相や胡錦濤国家主席の現地視察の模様が大々的に放映されている。私たちからみるとちょっと違和感を感ずるが、中国には中国の事情があるのだろう。私たちの感覚で他国のことを判断するのは慎重でなければならない。日本のテレビは“国際緊急援助隊”の活躍を報じたいようであるが、これにあまりこだわる必要はないと思う。災害の規模があまりにも大きすぎる。100人前後の援助隊にできることは、ささやかな“援助”でしかないのである。。
自然災害であろうがそれ以外の災害であろうが、被害者は自らの力で立ち直るしかないのだ。いろいろな災害に直面してきた人間は、しかし、そうやって災害に打ち勝ってきた。それが人類の歴史である。人間とは儚く切ない存在なのである。他人ができることなど、実は殆どないのである。そうしたことに想いを致すとき、人間としての同情が自然と生まれる。非力で儚い存在同士が共有する切ない想いである。
私は思い上がった援助や同情が嫌いである。わが国の援助にはちょっとそんな感じがしないでもない。私たちは謙虚でなければならない。所詮、他人の苦しみを代わって背負うことなどできないのである。しかし、私たちができることは全力を尽くして行わなければならない。私たちは、国際社会でできることを本当に行っているのだろうか。アメリカに追従してアフガニスタンやイラクでやっていることは、本当に国際社会に対する貢献なのだろうか。わが国は難民を受け入れているだろうか。胸に手を当てて考える必要がある。
それでは、また。