人間の記憶とは…
09年02月02日
No.1071
昨日は終日、刑事記録と睨めっこしていた。疲れるとちょっと横になって休み、起きるとまた記録と格闘する。供述調書がほとんどである。人の供述というものは曖昧なものだ。一つひとつの文言にあまり拘ってはならない。一つひとつの供述の核(コア)となる部分を押さえ、全部の記録を何度も通読して全体像を捉えなければならない。そうすると少しずつ事実が見えてくる。
人間の記憶には、当てになるところと当てにならないところがある。証人尋問で「こんな大事なことの記憶がない筈はないでしょう」などと質問者は良く言うが、人間の記憶というものはくだらないことでも憶えていることは記憶している。しかし、重要なことでも憶えていないこともある。実際に行動しているときに、何が重要であるかということを私たちはいちいち認識しないで行動していることが原因だと私は思っている。
私はいくつかの重要な政治的出来事を目撃してきたし、責任者の一人として参画したこともある。だからといって、それらを全部記憶していない。そもそも毎日の行動の全部を記憶していたら、私たちの頭はパンクしてしまうのではないか(笑)。コンピュータをやっているとよく何ギガバイトとかいう言葉を耳にするが、私たちの記憶力といういうか容量はどのように表現できるのだろうか。あまりハッキリと表示できるとすると、それはそれでいろいろな問題が出てくると思うのだが……。
私たちの仕事や日常生活には、何があったかをできるだけ記憶しておいた方がよいことがある。私は自分の記憶力など信用していないので、できるだけ記録に残すしかないと思っている。しかし、記録を残すことだけに集中できない場合もある。たとえば女性をくどく場合、いちいち記録を残すことができるだろうか。そんなことをしていたら、恋を掴むことができないか、失恋してしまうこと請け合いである。だから私はその場その場で全力を尽くすことを心掛けている。一所懸命にやるということだ。己のキャパ(シティ)はだいたい承知しているから、その時どう行動したかはだいたい推測できるからだ。
それでは、また。