在素知贅
06年12月10日
No.272
在素知贅(ざいそちぜい)。私の尊敬する大平正芳元総理大臣が好んで色紙などに揮毫した言葉だ。私の大好きな言葉のひとつである。出典を探してみたが、私の持っている辞典などにはなかった。以下は、私の解釈である。まず「知贅」の方だが、知とは知識とか智識とか精神的なものをいってるのだと思う。贅は、贅沢(ぜいたく)の贅だ。知贅とは、知性的なもの・精神的なものは贅沢・豊かでありたいということだろう。問題は、「在素」の方である。
在素の在は、知に対峙するものであろう。知が知性的なもの・精神的なものをいうとすれば、在は物質的のものということになる。衣食住は、人間生活に欠かせないものだがいずれも物質的のものである。私がやめられないタバコも、消えてなくなるものだがここでは物質的なもの=在の方にいれられることになろう。在とは、人間の生理的・肉体的な分野に必要なもの・資する物の総体を指すのである。素は、質素の素である。贅沢の反対である。私たちが生理的・肉体的に欲する物が在であり、それは質素であれというのが在素知贅の意味することだと私は思っている。
私は大平派の新人議員として初当選したが、当選前に大平総理とあったのは数回しかない。当選した7ヵ月後にいわゆるハプニング解散があり、その選挙の最中に大平総理は心筋梗塞で亡くなった。だから大平総理と議席を共にした期間は7ヶ月しかない。しかし、大平派であったので、世田谷区瀬田にあった大平邸にも何度かお邪魔した。自宅に帰った大平総理は、いつもドテラを着ていた。風貌は皆さんご存知のとおりだ。どう見ても田舎のおじさんにしか見えない。国会にいる時はもちろん背広であったが、これも地味なものが多かったような気がする。
在素知贅を信条とする大平正芳という政治家にとっては、要するにそういうことはどうでもよかったのだろう。知を豊かにするためには、読書は不可欠である。本はよく買っていたようである。書店で本を買う様子がよく取り上げられた。これはパフォーマンスでなく、時々書店に行かないときっと欲求不満になったのではないだろうか。あの当時のわが国の政治はパフォーマンスなどというものに政治価値を認めず、そういう政治家は軽蔑された。大平正芳というと「あーうー政治家」と揶揄された。そういわれることも本人はあまり気にしていなかったのではないかと思う。大切なのは、あーうーの間にある言葉だろうと考えていたのだと思う。
大平氏が用いる言葉は意味深長で味わいのあるものが多い。著作集などを何冊か持っているが、いま読んでもハッとする新鮮なものもある。智力の然らしめるものであろう。大平氏はいわゆる人気のある政治家では決してなかったが、そういう政治家でも総理大臣に日本国民はしたのだ。在素知贅な総理大臣を選択する力があったということだ。それぞれの選挙区で政治家を選ぶ時にもその力を持っていたということだ。現在はこういう力が国民になくなったのではないか。
小泉首相や安倍首相などは、パフォーマンスの力だけで総理大臣なったようものである。そのパフォーマンスも政治の専門家にいわせてもらえるならば、かなり程度の落ちる部類のものである。パフォーマンスは知ではなく、在の分野に属するものであろう。パフォーマンスを重視する政治家は、在の方を贅沢にしたいという政治家である。在の方を重視して政治家を評価・選択するということは、政治に知を求めない国民の反映でもある。しかし、確立された知は、歴史の試練に耐えて生まれた理論なのである。理論を平気で無視する総理大臣は、必ずその国をダメにする。現にそうなっているではないか。知素を選択した国民は、結局は在の方も素になってしまった。そういうものである。もって瞑すべし。
それでは、また。