「晩○」・考(その2)
07年09月09日
No.544
昨日の昼間、東京は台風の影響によるフェーン現象から猛烈な暑さだった。しかし、夜になると秋を感じさせる爽やかな風が吹いていた。下地説はそれなりに正しいようである(笑)。夜、近所を散歩すると植え込みのある所からは蟲の音が聞こえてきた。このように季節のいろいろな要素が1日の中に混ざり合っている昨今である。そこで考えた。
今日は重陽の節句である。暦の上では初秋というのが正しいのだろう。しかし、日々を季節の要素をみていると初秋というにはちょっと早いような気がする。初秋でないとすれば、紛れもなく晩夏だ。このことは誰も疑わないであろう。そうすると重要なことがひとつ分かってくる。晩夏の季節には、もう次の季節である秋の要素がかなりあっても少しもおかしくないということである。問題は、一日の間に夏の要素と秋の要素のどちらが優勢かということなのではないだろうか。
どちらが優勢かということは、客観的に測定することもできるであろうが、主観的要素で決められることもあるだろう。先ほどの蟲の音などに重点をおく人は、晩夏とはいわずに初秋というのかもしれない。蝉は夏でなければ決してその鳴き声を聞くことはできない。昼間は、まだ蝉の鳴き声がある。そうすると初秋ではなく、晩夏というのが正しいという人がいるかもしれない。気象予報士は、こういうことに関してどのようにいうのだろうか。訊いてみたい気がする。
私がこのように“晩夏”かどうかにこだわっているのは、理由がある。それは“晩年”とはなにかということをハッキリさせたいからである。老年と晩年とは、どう違うのであろうかということである。老年というのは、一定の年齢になればそう呼ばれるのであろう。70歳の人がいくら力んでみても、老年であることは誰も否定できないであろう。しかし、70歳の人が晩年であるかどうかは、必ずしもそうとはいえないのではないかということである。仮にその70歳の人が80歳まで生きたとしよう。その人の70歳ころの言動をとらえて、「その人の晩年のなになには云々…」というだろうか。そうはいわないと思う。
晩年とは、どういう要素とどういう要素が鎬(しのぎ)を削りあっている状態をいうのだろうか。それは生と死が鎬を削りあっている状態をいうのではないだろうか。確かに人間年をとると老人となる。そして老人はいつか必ず死ぬ。しかし、老人に達した人間は、すべて死と鎬を削りあっているのだろうか。必ずしもそうとはいえないと思う。本当に元気な老人がいる。最近そういう老人が増えてきた。しかし、いくら元気な老人だからといって、身長が伸びることはないであろう。年齢を感じさせない魅力的な女性も多いが、70歳を過ぎたら子供を産むことはできないであろう。身長が伸びるというのは青年期までの身体的特徴である。
老年というのは、一定の年齢に達すれば誰も老人になるのだろう。しかし、老年に達したからといって直ぐに死ぬとは限らない。すべての老人が死と鎬を削っている訳ではない。青年の平均余命と老人のそれとを比べれば、明らかに老人の平均余命のほうが短いであろう。それは人間が必ず死ぬという運命にあるからに過ぎない。いくら元気だからといっても、老人の身長が伸びることもないであろう。それは老人の身体的特徴からである。身長が伸びないからといって、健康な老人ではないとはいえない。
私は父と母をともに70歳で亡くしている。だからなんとなく70歳を人生の終わりと考えてきた。今年で62歳となり、もう8年くらいしか私の人生はないのかもしれない、と考えフシがあった。あと8年くらいしか生きられないとなると新しいことに挑戦しようという気持ちがなくなることは確かであった。“晩年の心境”とでもいうのであろうか。しかし、昨年「健康生活」を実践してみて、人間努力すればけっこう長く生きられるのかもしれないと思うようになった。もし、健康に注意しかつ長生きする努力をし、80歳まで生きることが可能であるとした場合、62歳で“晩年の心境”になってはならないと考えるようになった。
この永田町徒然草を毎日書くようになって、私には私なりの仕事があるように思えてきた。“晩年の心境”でこれを続けることはできないし、読者にも申し訳ない。第一、後世に書き残すことなど、私ごときの人生にそんなにある訳がない。生か死かを極限まで突き詰めた場合、明日の命も分からないというのがそもそもの根本である。私自身を含めて、生きとし生ける者に限りない愛情をもっていくことが大切だと思っている。これが私の現在の心境である。この問題は、まだまだこなれていない。今後ともこの問題について間歇的に論じたいと思っている。
それでは、また明日。