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政治評論家――白川勝彦?! 

06年12月01日

No.264

今日ある友人から「お前は政治評論家になったのか」といわれた。私がこの永田町徒然草を毎日のように更新しているからであろう。私は政治評論家になるつもりはない。私は19歳のころからいつも政治を語ってきた。政治活動もそれなりにやってきた。政治活動でお金を出すことはあっても収入を得ることはできなかった。政治を語り、政治活動をすることによって収入を得ている者を政治家と呼ぶというのならば、衆議院議員になった34歳の時から世間的には政治家になったといえるのかもしれない。だが私にはそんな考えは少しもなかった。当選する前も当選した後も、私は同じような活動・生活をしてきた。衆議院議員の報酬は貰えることになったが、残念ながらそれで生活はできなかった。

国会議員の歳費・諸手当は高いといわれている。確かに相当の額だ。当選した当時、歳費は100万円をちょっと切るくらいだった。文書交通費も100万円貰えた。二人の公設秘書の給与も国から支給されるこになった。それで何が不足かといわれるだろう。しかし、それまでは東京事務所は要らなかったし、東京に秘書も必要なかった。国から貰えることになった歳費や手当などは新たに東京で必要になったものですべて消えてしまった。よく話題になる議員パスもそれで儲かるというものではなく、当選したことにより必要になった国会と地元の往復のお金がかからなくても済むというだけに過ぎない。当選する前から設置していた地元の事務所費用に、国からもらえるお金を回すことはできなかった。

それでは当選する前、選挙区に設けていた事務所維持にどのくらいの費用がかかっていたかというと300万円から400万円であった。私はこの費用を弁護士をしながら稼いでいた。当選後私は弁護士として法廷に立つことは実際問題としてできなかったし、するつもりもなかった。当選すれば少なくとも政治活動に必要なお金は何とかなるのだろうと思っていた。しかし、これはまったくの誤算だった。衆議院議員として国から貰えることになったお金は、衆議院議員でない時は必要なかった東京事務所の経費としてすべて消えてしまうのである。月末がくると地元の事務所の経費が払えないのだ。私は困ってしまい、加藤紘一代議士に相談した。

状況を正直に話し「こんなものなんですか?」と訊いたところ、「そんなもんだ」というのが加藤先生の答えであった。しかし、これでは毎月300万円くらいの借金ができてしまいすというと、こういわれた。
「白川君。代議士になるためには、おおぜいの人から票を貰わないとなれない。同時に代議士として政治活動をするためには、おおぜいの人からお金の面での支援をいただかないと一人前の政治家としてやっていけないのだ。これは選挙の票を集めると同じようにコツコツと努力するしかないんだ。それしかないんだ。どうしてもやっていけない時は俺にいってこい」
こういわれたのでは、私は意地でも加藤先生にお金を下さいといえなくなってしまった。盆暮れには党や派閥や加藤先生からお金を貰ったが、その時期にはこちらも秘書のボーナスを出さなければならない。もち代とか氷代とかいわれるお金は、これできれいに消えた。

当時私は独身だった。自分で食っていければそれでよかった。国から貰える歳費と文書交通費は、地元の事務所経費に全部あてたが、それではとても足りなかった。月末が来るのが怖かった。私は政治献金を貰えるように一生懸命に努力したが、当選1回の衆議院議員にお金を出してもいいなんて会社や個人はほとんどなかった。月末の支払が何とかでき、月末が怖くなくなったのは当選して7~8年経った時であった。私も努力したが、秘書も懸命に努力してくれた結果であった。

政治献金というと公共事業に絡んだ口利きと思う人が多いだろうが、私の場合こうしたものは皆無だった。私にはそういう依頼もなかったし、そういうことでお金を集める気も私にはなかった。どういうころから政治献金を貰えるようになるかというと、いろんな陳情を一生懸命やったことを契機にということもあることはある。もちろん陳情をうまく処理できたからといって弁護士のように対価を要求できるものではない。しかし、これは意外に少ないのだ。一番多いのは、私の政治活動をどっかでみていた人、知った人が献金を申し出てくれるのである。だから政治活動を一生懸命やることが一人前の政治家=必要な政治資金を自力で確保できる政治家になる道だと私は考え、努力した。きれいごとをいっているようだが、これは事実なのである。

私は政治的にも政策的にもかなり個性的な主張をしてきた方だと思う。蓼食う虫も好き好き。私の政治資金は、私の政治活動が広がるにつれて多くなっていった。だから、私は政治家としてきちんと発言することに全力を傾注してきた。国から衆議院議員として貰えるお金は、立法府の議員としての報酬・手当なのだ。法律を作ったり、国会質問が職務である。だから、法律や質問に絡むことでお金を貰うと収賄罪に問われることになるのだ。立法府の議員になるためにかかる経費=地盤培養を含めた政治活動費は、国が面倒をみてくれる訳ではない。そんなことは各自で考えろということだろう。だから、政治活動費は政党や個人によって異なる。社会党の議員などは、自民党からみればその経費はかなり少なくて済んだようだ。選挙を物心両面で支えてくれるキッチリとした組織がついてくれているからである。共産党や公明党も同じであろう。

さて、話をもとに戻そう。私はいまひとりの人間としてこのWebサイトを通じて政治的な発言をしようと思っている。またしたいのだ。それは本能に近いものである。いまこの活動をしたからといって私は収入を得ているわけではない。またこの活動を通じて収入が得られる公務員(議員とか首長)になろうという気持ちもない。このWebサイトを通じて政治的発言をすることが私にいまできるもっとも現実的な政治活動なのだ。だからこの活動に専念している。私のこの活動を評価して物質的に支えて下さる方がいればそれにこしたことはない。それで生活できれば私は立派な政治家だと思っている。いまのところそれはほとんどないが……(苦笑)。この活動にかかる費用は30年前と同じでいまのところは弁護士業で稼ぐしかない。ただし、選挙に出るわけではないので300万円もかかることはない。

私は政治を評論することを生業としようとは思わない。だから政治評論家ではない。政治はかくあるべしと主張しているのだ。名宛人は政治家であり、政治家に投票する国民である。私の主張がこの人たちにとって何らかの意味があり、それによってわが国の政治が少しでもいいものになれば本望だと思っている。どうしても肩書を付けなければならないというのならば、『政治論評家』とでもしようかと思っている(笑)。「評論」と「論評」はどう違うのかといわれると苦しいところがある。ただ、テレビなどで目にする政治を茶化したり面白くいう政治評論家の類ではないことを強調したいだけのことだ。評論と論評は紛らわしく、混同されると思うのでいまのところこれを使うつもりはない。

弁護士もしばらくやっていなかったので昔のように稼げないし、稼ぐ気も余りないのでお金は残念ながら余りない。できるだけ経費をかけないでこの活動をするために、自分で永田町徒然草の更新をできるようにということでブログシステムをうまく使うことにした。永田町徒然草の更新ならばほほ完全にできるようになった(画像はまだダメだが)。痛快なものだから毎日のように更新しているのだ。迷惑だという人もかなりいると思うが、インターネットの良いところで読みたくない人は見なくていいのだから勘弁してもらいたい。ただこの数回の更新の日時を見てもらえは判る通り、夜更しをするようになり「健康生活」がおろそかになっている。これだけはやめなければならないと思っている。今日はこれをupdateしたら休むことにする。

それでは、また。

  • 06年12月01日 12時04分AM 掲載
  • 分類: 1.徒然

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