「戦争とテロと平和」について
15年11月22日
No.1796
人間は、時に感情的になることがある。感情的にならなければ、行動できない時もある。私も、感情的な方である。しかし、感情と感性は、明らかに違う概念である。“豊かな感性”などという表現を、私たちはよく見聞きする。豊かな感性で、社会や政治を把握するのは、大事なことである。パリの同時多発テロ後の国際的な状況把握は、ちょっと感情的になり過ぎているのではないか。求められているのは豊かな感性だと、私は思っている。
その上で、世の中を常に、理性的に捉えることが必要である。理性と知性は、同じではない。知性よりももっと高度なのが、理性である。パリの同時多発テロを扱っている番組に登場する評論家やコメンテーターなどは、知識はあるのかもしれないが、理性があるとは思えない。私たちはイスラム世界の事情に疎いし、ましてや、テロに関する情報や知識などほとんどもっていない。だから、彼らの言うことをつい信じてしまうのだ。
アメリカの9・11同時多発テロが起こった時、アメリカ国民は感情的になっていた。“テロとの戦争”を叫ぶブッシュ大統領(息子)を、90数パーセントのアメリカ国民が支持していた。アフガニスタンに対する戦争も、イラクに対する戦争も、そのような感情的な情勢認識で起こった。それは、アメリカだけではなかった。世界中が、似たような状態だった。わが国も、決して例外ではなかった。この二つの戦争が、現在のテロや多数の難民が発生する誘因となっている。
フセイン家長男ウダイ・サッダーム・フセイン、次男クサイ・サッダーム・フセインの潜伏する拠点を強襲する第20合同任務部隊のデルタフォースと、米第101空挺師団第327歩兵連隊第3大隊(上部)
北部イラクでの民兵による銃撃・MANPADSによる対空攻撃、倒されるサッダーム・フセイン大統領銅像(下段)。
[ Wikipediaより]
この世の中の出来事は、すべて因果応報である。仏教は、そう教えている。キリスト教徒でもイスラム教徒でもない私には、ごく自然に仏教のこの教えが心に浮かんでくる。私は、自分が理性的だとか、感性豊かな人間だなどとは思っていないが、こういう視点から、できるだけ冷静に世界情勢を読み解こうとしているのだ。G20、APECおよびASEANの首脳会議において相次いで声明が出されているが、もうひとつの重要な視点が抜けているような気がしてならないのだ。
21世紀が始まってやがて16年になるが、いま、世界中が何かに気が付かないと「21世紀は、戦争とテロの世紀」になるような気がする。その原因のひとつとなっているのが、マスメディアの在り方である。パリの同時多発テロの映像は、これでもかこれでもかと入ってくる。しかし、テロ撲滅のために行われている戦闘行為の現場の映像は、ほとんど入ってこない。そこでもきっと、悲惨な状況が起こっている筈だ。
私たちがよく目にする映像は、テレビゲームのような無機質な映像がほとんである。しかし、そこでは多くの人々が殺され、住まいが壊されている筈だ。私たちの世代は、ベトナム戦争の時の経験がある。反ベトナム戦争の運動が世界的に起こったのは、戦場カメラマンによるベトナム現地の生々しい映像であった。現代でも、戦場カメラマンは多数いるのであろうが、世界中のメディアが何らかの理由で、その映像を載せないのであろう。そうだとしたら、悲しい現実である。
インターネットとスマホは、21世紀の世界中の市民が手にした、新しい情報通信手段である。これを有効に使って、世界の支配者が狙っている情報支配に侵されないことが重要である。そのためには、豊かな感性と高い理性に裏付けられた多くの世界市民の情報発信が、不可欠である。私も、そのような世界市民の一人たらんとして努力しているつもりだが、内心、忸怩たるものがある。
さて、最後になってしまったが、安保関連法案反対から始まったわが国民の平和への戦いについて、である。最近、あまりその動きが伝わって来ない。野党共闘の方は、どうなっているのだろうか。政権側は、テロの脅威を口実に、マスメディアを巻き込んで手の込んだ攻勢を仕掛けてくるだろう。覚醒した国民は、ここは踏ん張って、闘わなければならない。
今日は、このくらいにしておこう。それでは、また。