強者の戦争と弱者の戦争
15年11月19日
No.1795
イスラム国のテロを報じるニュース報道番組にチャンネルを合わせれば、冒頭はパリの同時多発テロである。少々辟易している方もおられるかもしれないが、私は、熱心に見るようにしている。ただ、私は事件の個々の情報よりも、テロ報道のニュース全体に占める割合と報道姿勢に着目して見ている。テロの残虐さや悲惨さを強調するのは、当然であろう。しかし、テロには必ず原因と理由がある。それを無視して、恐怖と憎悪を煽る報道姿勢はいただけない。
先月31日、エジプト東部シナイ半島で起こったロシア旅客機墜落も、イスラム国関係のテロによるものと断定された。確か、死亡者は二百数十人だった筈だ。今回の倍近くの死亡者である。このテロによる死亡者を悼む行動は、どうなっているのだろうか。11月18日、時事通信が次のような記事を配信している。日本のメディアとしては、珍しい記事である。
「なぜパリばかり注目」=アラブ世界に違和感 ― 仏同時テロ
【カイロ時事】13日に起きたパリ同時テロをめぐるニュースが連日、世界で大々的に報じられている。一方、アラブ世界では、今回のテロをはるかに上回る犠牲者がシリア内戦などで毎日出ているが、パリほど注目されない。人々の間では「なぜフランスの事件ばかり関心が集まるのか」と違和感が広がっているようだ。アラブ世界のイスラム教徒の間でも、129人が犠牲になったパリ同時テロへの関心は高い。市民からは、犯行声明を出した過激派組織「イスラム国」を非難し、突然の凶行で命を落とした人々やその遺族らへの同情の声が聞かれる。
ただ、その1日前の12日にレバノンの首都ベイルートで起き、40人以上が死亡した連続自爆テロは、あまり各国メディアで報じられていない。クウェート紙アルライは「レバノンの人々は、世界にとってレバノンの犠牲者はパリと同等でなく、忘れ去られたと感じている」と伝えた。
エジプト紙アルワタンも「アラブ諸国では毎日人々が死傷しているのに、なぜフランスばかりなのか」といったフェイスブック投稿者の違和感を伝えるコメントを掲載。町の喫茶店では「世界は二重基準だ」と不満の声が聞かれたことにも触れ、「強い国は注目され、弱い国は(強い国より)悲惨な事件が起きても目を向けられないものだ」と語る大学教授の見解を紹介した。
フェイスブックでは、プロフィル写真上にフランス国旗を映し出す機能が搭載され、世界中で多くの人がこれを利用している。こうした中、エジプトの著名俳優アデル・イマム氏は「フランスよりレバノンの方が(エジプトに)近い。だから私は連帯を表明する」と述べ、自らの写真にレバノン旗を重ねた。
ボリシェヴィキの党員集会
着席の人物 左から
エヌキーゼ、カリーニン、ブハーリン
トムスキー、ラシェヴィッチ、カーメネフ
プレオブラジェンスキー、セレブリャコフ
レーニン、ルイコフ
私の記憶によれば、テロ=テロリズムは20世紀初頭の帝政ロシア下において、主に無政府主義者らの反政府行動として起こった。反政府行動を扇動する効果はあるが、テロリズムでは人民は救われない。ロシアの革命運動は、政党が主導するに運動に止揚され、ロシア革命は、1917年にボリシェヴィキの手によって達成された。このように、テロリズムは独裁体制の下で生まれた。
テロは、“弱者の戦争”ともいわれている。強者の戦争とは、政府軍が行う戦争である。また、圧倒的戦力を誇る他国軍による戦争である。現在、イラクやシリアにおいて展開されている有志国連合によるイスラム国の支配地域に対する戦争行為は、後者に当たる。フランスは、今年1月の新聞社襲撃事件を機に、イスラム国への空爆に踏み切った。強者の戦争に対する弱者の戦争が、テロなのである。
大義のある戦争は、ない。また、大義のあるテロもない。私は、そう考えている。強者が戦争を仕掛ければ、弱者はテロで応戦する。これは、避け得ないことである。強者の戦争は許されるが、弱者の戦争は許されないという理屈はない。フランスのオランド大統領は、「これは戦争である」と盛んに演説している。そう、戦争なのである。フランスは、もう戦争をしていたのだ。戦争を仕掛ければ、相手が戦争を仕掛けてくるのは、覚悟しておかなければならない。
とりあえず、今日はこのくらいにしておこう。パリの同時多発テロで、いろんなことが起こっている。さらに、いろんなことが起こるであろう。ただ、以上述べたことを念頭に入れて、読者諸氏は己の考えをまとめていって欲しい。その中から、わが国が直面する“イスラム国のテロ”の、対象にならない途が見えてくる筈だ。しかし、安倍首相が自分勝手な独裁政治をやっている限り、それに対するテロが発生する危険性は「多分にある」と指摘しておく。
それでは、また。