日米同盟とは、いったい何だ。
15年05月10日
No. 1747
春寒の陽気が平常に戻った頃から、良い天気が続いている。今年のゴールデンウイークは、全国的に良い天候に恵まれた。どこの行楽地も、かなりの賑わいを見せたようだ。その中で災難にあったのが、箱根である。いまのところ、具体的な危険はほとんどないようだが、箱根山周辺・富士山全体の行楽が落ち込んでいるという。箱根は伝統的な行楽地だから、その影響は相当に大きかろう。万事上手くは、いかないものである。
今年のゴールデンウイーク(5月3日~6日)、私は結局、どこにも出かけなかった。都内で美味い物を食べたり、テレビなどを見ていた。全体に溜まっていた疲れなどを、すっかり解消することができた。しかし、この間テレビで流されていた安倍首相のアメリカ議会での演説や、それに関連する報道で、私の憂鬱は昂ずるばかりだった。心ある読者も、同じ気持ちだったのではないだろうか。
そもそも、“日米同盟”とは、いったい何なのだ。どのような条約に基づくものなのか。私が国会議員だった頃、わが国の政治家は、日米同盟などという言葉を安易に口にしなかった。ある国とある国の同盟は、政治的に非常に重い言葉である。何らかの条約等がなければ、使われない表現だし、また使ってはならない表現でもある。それは、○○同盟という場合、普通は二国間の軍事同盟を指すからである。
A国とB国の軍事同盟は、非常に重いことを意味している。同盟関係があるA国に対する軍事攻撃は、同盟を結んでいるB国に対する軍事攻撃と見做され、B国が、A国に軍事攻撃をした第三国に対して軍事攻撃を加えることを主な内容としている。日本とアメリカとの間にそのようなことを窺がわせる条約は、日米安全保障条約しかない。同条約は、日本に軍事攻撃を加えた国に対して、アメリカは軍事攻撃をすることを主な内容としている。
日米安全保障条約の片務性は、良く知られたことである。日米安全保障条約は、アメリカに対して第三国が軍事攻撃を加えたとしても、日本は第三国に対して軍事攻撃を加えることはしない(=できない)としている。同条約がこのような内容となったのは、何よりも日本国憲法の存在である。もうひとつの理由は、この条約が締結された時代の国際情勢であった。
日米安全保障条約のこの片務性については、アメリカにもわが国にも、締結当時から異論はあった。しかし、わが国の国内情勢や国際情勢からいって、これ以外の安全保障条約を作ることはできなかった。日米安全保障条約は、過去の歴史を背負った所産なのである。わが国とアメリカは、この歴史を背負った安全保障条約を良しとして、日米関係を築いてきたのである。そして、それは両国にとって意義のある条約だったのである。
「日米安全保障条約を中心とする日本とアメリカの二国間関係は、双方にとって死活的に重要な二国間関係である」というのが、私が国会議員当時(平成10年頃)の、最大の肯定的な表現であった。これを修辞的に日米同盟と呼ぶのは許されるとしても、政治の場で“日米同盟”と無批判に呼ぶのは、断じて許されない。日本の政治家である限り、絶対に許されないことなのである。
およそ政治的知識も見識もない安倍首相が、アメリカでどのような演説をしようが、日米安全保障条約や日本国憲法は毫も変わらない。安倍首相が、日本とアメリカとの関係を“希望の同盟”と表現したとしても、それは文学的表現に過ぎない。そんなものは、政治的には全く意味がない。従って、これを批判する者は、日米安全保障条約と日本国憲法に基づいて、正面から批判しなければならない。これからの国会論戦を、じっくりと見る必要がある。
今日は、このくらいにしておこう。それでは、また。