報道の自由と責任
15年01月16日
No.1732
この10日間、私は、フランス・パリの新聞社襲撃事件に関する報道をできるだけ注意深くフォローしてきた。そして、いろいろな事を考えてきた。表現の自由について、私は最大限の価値を認めている。表現の自由がない社会は、自由な国とは言えないと思っている。今回の新聞社襲撃事件が、表現の自由に対する重大な侵害であることは、間違いない。私はこれに強く抗議し、事件の被害者に、心からの哀悼の意を捧げるものである。
このように考える私だが、どうしても“腑に落ちない”ところがあるのは、何故なのだろうか。私は、そのことをずーっと考えてきた。フランス・パリで起こった事件については、各種の報道を通じて、かなり詳細に分かった。しかし、今回の事件と深く関わっていると思われる空爆について、西側メディアは、適切な報道を殆どしていない。日本のニュースでも、イスラム国に対して空爆が行われたと報ずるが、テレビゲームの戦争みたいな映像ばかりだ。
私たちが知らなければならないのは、その空爆によって、どのような被害が現実に起こっているかだ。その空爆は、アメリカ・フランスなどの国家行為として行われている。襲撃事件の現実と、空爆の現実。この双方を直視した上でなければ、フランスやヨーロッパで起こっている諸現象を正しく評価できないと、私は思うのだが…。
「我思う、ゆえに我あり」─ デカルトのこの命題を知った時から、私の自我の苦悩は始まった。フランス革命の歴史と思想は、私の人生に、最も多くの影響を与えた。だから、敢えて私は、今回の“腑に落ちないこと”に
今日は、このくらいにしておこう。それでは、また。