安倍首相の“不都合な真実”。
14年12月27日
No.1725
解散・総選挙の間、この永田町徒然草で、私は、“ファッショあるいはファッショ的”という表現を何度も使った。安倍首相や自公“合体”政権の所業がいくら悪いからといって、それを非難ないし批判“ファッショあるいはファッショ的”と表現しなければならないほど、危険な段階にきているのだ。
自由な社会・集団においては、誰かがファッショ的な所業を行おうとしても、自由な“個人”がいる限り、必ず反発・反抗が起こり、暴挙・蛮行は不可能なのだ。自民党の中に右翼反動の政治家やグループがいるのは、常態である。右翼反動はファシズムを理想とするから、その行動も、ファッショ的なものになりがちである。しかし、かつての自民党の中には、右翼反動と敵対する“自由な価値観をもつ政治家”がいた。
わが国の最大の問題点は、政治や言論の場において「自由な“個人”、あるいは“自由な価値観をもつ政治家”」が、抹殺あるいはそれに近い状態にあることなのだ。その非道な役割を果たしているのが、自公“合体”体制における創価学会・公明党なのだ。また、その役割は、創価学会・公明党でなければできないのである。多くの国民が、安倍首相に対して胡散臭いものを感じているとすれば、ここにあると私は考えている。
安倍首相は、かつて亀井静香代議士の子分として、政教分離反対を唱えて動いていた時期があった。だから、安倍首相は創価学会・公明党の危険性を知らない筈がない。だが、安倍首相にとって、今やそんなことはもうどうでもよいのだ。権力亡者として、創価学会・公明党を使って、己の野望を遂げるのに汲々としているのだ。しかし、自公“合体”政権の中核に創価学会・公明党がいるのは、安倍首相にとって“不都合な真実”であることだけは、間違いない。
最近は、安倍首相だけでなく多くの人々が、この“不都合な真実”に触れようとしない。いや、あまりにも大きくなり過ぎて、目に入らなくなってきたのかもしれない。だから私は、多くの人々が嫌がる問題にあまり触れないようにしている。しかし、この“不都合な真実”が、厳然たる事実であることに変わりはない。だから、求められれば、この事実の問題点を私は、容赦なく批判する。
まだ、今回の解散・総選挙が話題にもなっていない頃、『宗教問題』という雑誌から、取材の申し込みがあった。もちろん私は、この取材に応じた。総選挙が終わった後に、その雑誌が送られてきた。既に、当サイトのホームページでお知らせしているが、改めて、ここでご紹介申し上げる。年末年始の時間のある時に、ぜひご一読の程を。ところで、日本国民はいつまで、自公“合体”政権を許容し続けるのだろうか。“総懺悔”する時は必ず来るのだが…。
それでは、また。