危険な「文化」の劣化
14年10月11日
No.1697
非常に大きな台風19号が、日本列島を襲おうとしている。現在は、那覇の南方にある。沖縄・奄美は既に暴風域に入っているが、東京は、現在のところ良い天気である。昼のニュースでは、関東地方の高速道路は、行楽地に向かう車で渋滞になっているという。明日くらいまでは、関東や東日本は暢気でいられるのかも知れないが、それ以降は難儀するようだ。予想では、東京は連休明けの14日あたりが、いちばん大変なようだ。
先週の永田町徒然草で、私は、わが国の最大の危機は「いまほど、真のジャーナリズムが必要な時はない。いまほど、安倍政治と正面から闘う野党が必要な時はない。いま、そのようなジャーナリズムや野党がないことこそ、私に言わせれば、わが国の最大の危機なのだ」と述べた。結論はそれでいいのだが、これについて、少し
ジャーナリズムは、誰が考えても“文化”の範疇に属する。政治はどうだろうか。政治とは、言葉を武器に戦う戦争である、といわれる。政治は、言葉を抜きに語ることはできない。新約聖書の冒頭に「初めに言葉ありき」とあるが、政治こそ、言葉そのものである。言葉も間違いなく“文化”の範疇に属する。真のジャーナリズムがない・真の野党がいないということは、実は、わが国の文化に関連する問題なのである。
文化の定義
【文化】(ぶんか)
- 文徳で民を教化すること。
- 世の中が開けて生活が便利になること。文明開化。
- (culture)人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。
衣食住をはじめ科学・技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形成の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、技術的発展のニュアンスが強い文明と区別する。文化⇔自然。《広辞苑・第六版》
【文化】ぶん‐か〔‐クワ〕
- 人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。カルチュア。「日本の―」「東西の―の交流」
- 1のうち、特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。
- 世の中が開けて生活内容が高まること。文明開化。多く他の語の上に付いて、便利・モダン・新式などの意を表す。「―住宅」
[用法] 文化・[用法] 文明――「文化」は民族や社会の風習・伝統・思考方法・価値観などの総称で、世代を通じて伝承されていくものを意味する。◇「文明」は人間の知恵が進み、技術が進歩して、生活が便利に快適になる面に重点がある。◇「文化」と「文明」の使い分けは、「文化」が各時代にわたって広範囲で、精神的所産を重視しているのに対し、「文明」は時代・地域とも限定され、経済・技術の進歩に重きを置くというのが一応の目安である。「中国文化」というと古代から現代までだが、「黄河文明」というと古代に黄河流域に発達した文化に限られる。「西洋文化」は古代から現代にいたるヨーロッパ文化をいうが、「西洋文明」は特に西洋近代の機械文明に限っていうことがある。◇「文化」のほうが広く使われ、「文化住宅」「文化生活」「文化包丁」などでは便利・新式の意となる。
《goo辞書》
文化という多義の要素のある問題を論じようというのだから、一応“文化”とは何かを押さえておこうと思い、広辞苑とgoo辞書の【文化】を引用した。私がここで論じようとしているのは、goo辞書の2項目に関することである。すなわち、「人間の生活様式の全体。人類がみずからの手で築き上げてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝習されるとともに、相互の交流によって発展してきた。物質的所産は文明とよび、文化と区別される。特に、哲学・芸術・科学・宗教などの精神的活動、およびその所産」ということだ。
わが国の3人の学者にノーベル物理学賞が授与されたが、これは文明の範疇に属するようだ。「憲法9条にノーベル平和賞」という動きがあったが、もしこれが実現していれば、間違いなく文化の範疇に属するものである。今週、衆参の予算委員会において、安倍首相の所信表明に対して質疑が行われた。時間がないので飛び飛びにしか見られなかったが、質問にも答弁にも“哲学・芸術・科学・宗教などの精神活動”を感じさせるものは、ほとんど見られなかった。
政治を文化という場合、哲学・科学・宗教などが特に重要だが、ここでいう“科学”には、政治学・法律学・経済学・歴史学などが含まれる。政治家が使う言葉は、これらに対する知識を踏まえたものでなければならない。安倍首相は、よく“自由民主主義”という言葉を使うが、政治学では、自由主義と民主主義は別個の概念である。安倍首相の地球儀俯瞰外交は、これをごちゃにしているから、いったい何をやろうとしているのか、国民には理解できないのである。当然のことながら、成果も期待できないのだ。
明治時代、わが国は“富国強兵”を国策として、現在の北朝鮮を嗤えないほど、軍事力の増強を進めてきた。その軍事力を背景に、アジア全域に帝国主義的進出を企図したが、その結果は無残であった。富国も失い、軍隊も失った。そんな荒廃した時期、わが国は「文化国家」という目標を示した。虚無的になっていた当時の日本国民にとって、“文化国家を目指す”ということは、魅惑的なテーマであった。私は、そういう時代に育った。
敗戦したわが国の、戦後の虚無・空白を埋めたのは、文化であった。わが国民は、文化に渇望していた。虚無的な心情と物質的窮乏が厳しいほど、それを埋める“文化”は、質の高い物でなければ、国民の求めに応えることができなかった。大衆芸能といわれる映画・歌謡曲・演劇なども、そうだった。その中から、黒澤映画や小津映画が生まれた。美空ひばりの歌も生まれた。それらには、文化が奥深くある。私の、単なる懐古趣味ではなかろう。
東京に住んでいるわが家のテレビは、BS契約をしているので、14チャンネル以上の番組が見られる。テレビが好きなので、特にすることがなければ、テレビのスイッチを入れる。だが、私は直ぐにチャンネルを変てしまう。面白い番組がほとんどないからである。私が引き込まれてそのまま見入る番組は、10本に一つくらいである。私は、特別に高尚なものや芸術的なものを求めている訳ではない。極めて通俗的な人間である。しかし、面白い物・タメになる物でなければ、見たいと思わないからだ。
とにかく、わが国の文化は、つまらなくなっている。質が落ちている。近ごろの流行りの言い方をすれば、わが国の文化は劣化している。私は、国民が劣化している、とは思わない。文化を提供する方が劣化しているのだと思っている。その筆頭が、テレビ局であり、新聞社である。新聞社とテレビ局が劣化しているのだ。新聞社とテレビ局を堕落せしめたのは、安倍首相である。彼らは、意識的にマスコミを籠絡しようとした、珍しい政権である。
安倍首相とその仲間は、マスコミから批判精神を抜き取ろうとした。マスコミの首脳陣は、こうした安倍首相に擦り寄ろうとした。それは、わが国のマスコミ首脳陣 ─ すなわち、わが国の企業経営者の質の低さを、典型的に示すものであった。安倍首相とその仲間が、いとも簡単にマスコミを籠絡できたのは、NHKと公明党の存在である。政権は、NHKに対してかなり直接的な影響力を持っている。公明党もまた、マスコミに対して特別な影響力を持っている。創価学会は、巨額の広告費と自らが抱える芸能人で、マスコミに対して大きな影響力を持っているからだ。
とにかく、国民の生活や意識に強い影響力をもつマスコミが供給する番組は、極めて質の低いものである。質が低いだけでなく、世界水準からみたら愚劣でさえある。このようなマスコミの影響で、文化は、日を追うごとに低劣になっている。こういう状態が数年続けば、わが国は“とんでもない”国になっていく。1~2年でも、その危険性がある。私は、そのことを憂いているのだ。賢明なる国民の覚醒を、心から叫ぶばかりだ。
今日は、このくらいにしておこう。それでは、また。