『渡鬼』の最終回を観て。
07年03月30日
No.380
『渡る世間は鬼ばかり』の第8シリーズの最終回が昨日あった。最終回ということで2時間の特別番組だった。第9シリーズは来年の4月からだという。私は映画全盛時代に青春期を過ごした。だから映画やドラマが大好きである。しかし、最近の映画やドラマにはあまり迫力がないので、わざわざ観るものは本当に数少ない。その数少ない番組が、毎週木曜日夜にTBSで放映されていた『渡る世間は鬼ばかり』(以下、『渡鬼』という)であった。例えば、麻雀をしていてもこの時間がくるとやめて、近くの漫画喫茶(最近ではインターネット・カフェといわれるようになった)にいってこれを観たくらいだ。
どうして『渡鬼』が好きかというと、やはり筋が面白いからであった。これは、橋田壽賀子さんの脚本力のなせる業であろう。テーマも、あえて社会性とはいわないが現代的である。長山藍子演じる長女野田弥生の家庭の、娘の離婚や亭主の退職後の生き方や弥生自身の保育所ボランティア勤務など、定年退職を迎えたどこの家庭にもある深刻な問題を正面から描いている。もっとも野田家ほど理想的にはいかないが、こんな風にやれたらいいなぁという具合に見事に描いていて、共感が持てた。
『渡鬼』といえば、何といっても泉ピン子演じる2女五月が嫁いだ“幸楽”だ。幸楽というインスタント・ラーメンが売り出されたくらいだ(現在も発売されているかどうかは知らない)。『渡鬼』の鬼役は、五月の姑である赤木春恵演じる小島キミであった。若い人には作り過ぎだと思われるかもしれないが、昔の姑というのはほんとにこうだったのである。私の家は女系家族であった。おおぜの叔母や姉たちが春秋の彼岸にわが家に帰ってきて、一晩中姑の悪口をいうのを私は聴いた。叔母や姉たちがいうような鬼婆みたいな人間が本当にいるのだろうと子供心に思ったものである。叔母たちがくどいた姑も叔母たちも皆すでに鬼籍に入った。
今回終了した第8シリーズでは、この赤木春恵演じる姑がアメリカに行ってしまって、後半では登場しなくなった。“鬼”がいなくなった『渡鬼』は、正直いって物足らなかった。赤木さんの存在感の大きさを感じる。『渡鬼』のもう一方の相方であった岡倉大吉を演じていた藤岡琢也さんは、番組の途中で亡くなってしまった。後を宇津井健さんが継いだが、最初のうちはどうにも落ち着かなかった。やはり『渡鬼』は、藤岡琢也がいないと『渡鬼』にはならない。岡倉大吉は、いうならば4人の娘にとって母港みたいな存在なのだ。嫁いでいった娘たちはその家で頑張らなければならないのだという、かつての日本の親父たちが娘にそそいだ愛情を藤岡琢也は見事に演じきった。藤岡琢也さんのご冥福を改めてお祈りする。
『渡鬼』は長いながい連載である。私も最初からずーっとリアルタイムで観てきた訳ではないが、この6年間の浪人生活があったのでほぼ全部を再放送で観ることができた。だから浪人生活もそんなに悪いばかりではないというのだ。私が『渡鬼』を観たのは、もうひとつの理由がある。私の選挙の応援に橋田壽賀子さんと泉ピン子さんが応援に来てくれたからである。平成12年の総選挙のときである。加藤紘一氏が派遣してくれたのだ。加藤氏と橋田さんたちの関係は、きっと『おしん』が取り持ったのであろう。『おしん』の少女時代の舞台は、加藤氏の選挙区だからだ。せっかくご両人の応援をいただいたのに、残念ながら私は落選をしてしまった。
『渡鬼』について述べ始めたら、それこそキリがない。白川サイトの読者には、「白川、何で『渡鬼』なんだ」という方も多いのではないかと思うが、『渡鬼』が取り上げたテーマは現代的な課題が多いのである。政治家は、森羅万象のことに興味がなければならない。橋田さんが解決したように上手くいくかどうかは疑問だが、橋田さんが取り上げたテーマは私は鋭いし普遍性がある。現在のわが国のどこにでもあるきわめて現代的な問題なのである。くだらないことであろうがなかろうが、現実に起こる問題に興味を抱けないようでは、すぐれた政治家とはいえない。政治家というのは、良い意味で世俗的でなければならないのだ。安倍首相のようなタイプの政治家には、いい意味における世俗性がないのだ。彼らは、2世代くらい前の世俗的なことに関心をもち、アイデンティティを感じているようだ。だから私は彼らと本能的なところで共感ができないものがあった。
来年の4月から新しいシリーズがはじまるというが、私を含めてどうなっているのだろうか。ちょっとピンとこないところがある。しかし、第9シリーズが無事始まれば、私はきっといままでと同じように毎週観ることになるだろう。1年も先のことをいうと、それこそ“鬼”に笑われそうだ。関係者の精進を期待する。
それでは、また明日。