松井秀喜の快挙
09年11月06日
No.1336
私は中学時代、野球部に入っていた。にもかかわらず野球番組はほとんど見ない。野球の試合は時間がかかり過ぎる。長い間、娯楽として野球をそんなに長く観ることができない状況の生活をしてきたからである。昨日の大リーグのワールド・シリーズも観ている時間はなかった。それでも松井秀喜選手が大活躍したことは嬉しかった。イチローと松井が大リーグに行ってから、日本人選手の大リーグの動向がニュースで放映されるようになった。それは少しおかしいのではないかといつも思っているが、昨日のことは仕方ないと思う(笑)。
それにしても松井もイチローも、ここぞという時に見事な大活躍をする。それが天才なんだと言っていた評論家がいた。そうなのかも知れない。しかし、そのような奇跡ができるから天才なのだろうか。それならばそうでないときでも奇跡ができるはずである。天才といえども神様ではないのだ。懸命に頑張っても凡打・凡退の時もある。でも期待された役割を果たすために、彼らはいつも練習・精進をしているのである。その結果、信じられないような奇跡的活躍・快挙を時に行えるのである。
彼らが奇跡的快挙を成し遂げるのは、天才だからではない。いつも人並み外れた努力をしているからできるのだ。もちろん特別な能力・才能もある。しかし、それだけでは奇跡を起こせない。倦まず弛まずの練習・努力をいつも行っているからである。
「天才とは、99パーセントの努力と1パーセントのインスピレーションである」
ご存知のトーマス・エジソンの言である。
私も政治の世界で、一端(いっぱし)の政治家になろうと決意した一人であった。時に利あらず、現在のような境遇となった。志を貫こうと思った結果であるから、それは仕方がない。しかし、私はいまでも政治に参加しているつもりである。その自覚と確信をもって、日々この永田町徒然草を書いている。そんな雰囲気が少しはあるから、多くの読者がアクセスして下さるのだろう。いつもホームランやヒットを打てる訳ではない。でもアクセスした方に、何かを伝えたいと“倦まず弛まず”努力しているつもりである。松井秀喜の快挙をみて改めての精進を決意した次第である。
それでは、また。