マスコミの政治報道考
07年02月28日
No.350
昨日もけっこう忙しかった。夜10時過ぎに家に帰ってきた。従って昨日どんなことがニュースとなったのかよく判らない。しかし、政治的な話題としては、きっと東京都知事選と宮崎県知事の女性宿泊問題がけっこう大きく扱われたのではないかと推測している。東京都知事選はまさに旬な政治問題だ。宮崎県知事の方は、ひょっとしたら性事(せいじ)スキャンダルに発展するかもしれない問題である。しかし、私はこの両方ともそんなに興味をもてない。それはなぜか?
東京都知事選については、この前書いたばかりだ。黒川紀章氏が出馬したので状況が変わったからであろうか、浅野史郎氏の言動が違ってきた。それはそれでよい。しかし、戦いには気風(きっぷ)というものがある。浅野氏や浅野氏の出馬を期待している民主党幹部の言動に私は気風というものをどうしても感じることができない。こういうのが今風の気風だとしたら、私はもう時代遅れの政治家になったのかもしれない。そういわれても一向にかまわない。熱いものを感じられるかどうかは、理屈ではなく感情の問題である。しかし、変革には感情も大事な要素である。いずれにしても引責立候補などというのは勘弁してほしい。戦いとはそういうものではない。誰に頼まれるものではなく、やらなければならないからやるものである。
東国原宮崎県知事の宿舎に二人の女性が宿泊したどうかという問題は、あれだけ全国的に報道された知事であるから、問題にされても仕方がないだろう。東国原知事は、自分で積極的にマスコミに露出したのであるから、嫌なことを報道されたくなかったら自分で注意するしかない。都合のいいことはどんどん報道してくれ、都合の悪いことは報道しないでくれというのはマスコミをあえて使う者には許されない。マスコミとはそういうものなのだ。誰かが安倍首相の支持率が落ちたのは、東国原知事よりもマスコミに映らなかったからだという人がいたが、いい得て妙である。
東国原知事を当選させたのは、マスコミではない。宮崎県民の選択だったのだ。マスコミが馬鹿騒ぎをしたのは、当選した後であった。そのまんま東が芸能人であったために、マスコミは自分の身内が当選したと舞い上がってしまったのでないか。そのまんま東は芸能人としてマスコミに露出していたが、知事候補となってからはマスコミから特別扱いされなかったし、それは公職選挙法の関係で許されなかった。東国原氏には芸能人としての知名度はあったが、芸能人というハンディキャップもあった筈である。それを当選に結びつけたのは、東国原氏の才覚でありマスコミではなかった。マスコミは自分の力で当選させたと勘違いをしているようである。それは明確に違う。
どちらもマスコミと選挙、マスコミと政治の距離をどうするかという問題である。この点についてキチンとしたルールがないとマスコミが選挙や政治に不当な影響を与えることになってしまう。その弊害は、小泉改革とりわけ郵政選挙で痛感した筈である。この問題については、マスコミがまずガイドラインを提示する義務がある。必ずしもマスコミ全社が一緒でなくてもいいと私は思う。どういうガイドラインを自らに課しているを示すことによって、読者や視聴者は各社の報道姿勢について判断することができるからである。マスコミは、いまや第四権力である。権力は自らの権力行使についてルールをもつ必要がある。
それでは、また明日。