営業の自由と憲法
09年04月05日
No.1132
急に春めいてきた。「春宵一刻、値千金」。フラフラと出かけたいところだが、この週末は自宅に缶詰めである。どうしても書き上げなければならない憲法論があるからである。営業の自由に関する憲法論的考察である。ちょっと面白いので一部を紹介しよう。
営業の自由の憲法論的位置付け
日本国憲法は、自由主義を内外に闡明(せんめい)した憲法である。世界に冠たる自由主義憲法のひとつである。自由主義憲法とは、わが国の統治と運営を自由主義の原理に基づいて行うことを宣言した憲法である。
自由主義による国家の統治と運営を考える場合、政治的・経済的・社会的・文化的な分野におけるそれぞれの原理原則をみなければならない。原理原則の基本は同じでありその究極の理念は同一であるが、着目している国家や国民の利益に相違があるのでその現れ方は微妙に異なる。例えば、自由主義憲法の花形といわれる「人権規定」は、“個人として尊重される国民”(憲法13条)に対する刑事手続に関する保障規定であるばかりでなく、国家の政治的・社会的・文化的価値観に関係する規定でもある。国民の価値観に介入しない(換言すれば国民の価値観の自由を保障する)自由主義の政治においては、きわめて例外的であるが必要な規定である。
営業の自由を保障した憲法22条1項の職業選択の自由を保障した規定は、自由主義社会における経済に関するものであることはいうまでもない。憲法29条の「財産権はこれを侵してはならない」との規定や憲法27および28条の労働基本権に関する規定も同様である。憲法25条1項の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とする生存権規定は、わが国の政治と経済の運営の目的と目標を定めたものである。
いかなる政治体制においても、国民の経済的生存を確保することは重大な関心事である。自由主義国家と他の国家体制との最大の相違は、国家が国民の生活を即自的に保障していないことである。国家は国民に職業選択の自由(換言すれば「営業の自由」)を保障するのだから、国民の生活や経済に対し基本的に直接責任を負っていないことである。生存権を規定した憲法25条1項も、いまなお基本的にはプログラム規定であると解釈されており、各種の制限が厳に存在する。国民は健康で文化的な最低限度の生活ができないからといって、国に生活の保障を求めることは必ずしもできないのである。
自由主義国家は、国民の経済的な生存と生活に対して直接責任を負わない代わりに、国民の営業の自由を保障することによってその目的を達成しようと考えている。一見するとこれは非情であり無責任に思われるが、この原理原則は歴史的にも経験的にもある程度は成功してきた。第二次世界大戦後、経済運営に国家が権限を持ちかつ責任を負っている社会主義体制と自由主義体制は冷戦と呼ばれる激しい対決を繰りひろげてきたが、自由主義体制はその優位を示した。
自由主義国家であっても、国民の経済的生存を確保し経済の発展を期すことは国家運営の基本である。自由主義国家は、経済の発展を国民の「営業の自由」を保障することにより達成しようとする。これは、国民の叡智と努力を信頼し、それに依拠して経済の発展を行おうという国家の命運を賭けた選択なのである。
国家が結果に対して責任を負うことなく国民経済が発展することなど、結果として与えられた奇跡に過ぎない。市場経済原理により経済の発展を遂げようとする国家の経済運営は、国家の命運を賭けた真剣勝負なのである。自由主義憲法における「営業の自由」の保障は、刑事手続における人権保障規定に匹敵するもっとも基幹的・根源的な基本的人権である。営業の自由は真にやむを得ない理由がある場合でなければ許されない。