“権利のための闘争”の章典
08年05月03日
No.795
、日本国憲法が1947年5月3日施行されて61年が経過した。今日は“憲法記念日”である。今日も例年のように改憲派と護憲派の集会が開かれるのであろう。そのような集会に出席する予定はない。もちろん改憲派の集会に出席するつもりはないが、これまで護憲派が主催する憲法記念日の集会に参加したこともない。私にとって憲法は日々の戦いの章典であり、武器なのである。
“権利のための闘争”としての憲法解釈
法律家は、世間では屁理屈をいうことを事とする人物と思われているようである。法律家は、屁理屈を楽しんでいるのではない。ある価値や利益を守るために、戦いとして法律論を組み立てるのである。憲法の解釈などは特にそうである。憲法の解釈をする場合、その根底には政治的価値や政治的理想がある。その価値や理想を実現するために、“権利のための闘争”として憲法解釈が行われるのである。この基本をまず押さえておいて欲しい。
今回の租税特別措置法改正案の再可決をめぐる実体的問題とは、何であろうか。まず道路特定財源の暫定税率が高すぎることである。国民は道路が必要でないなどと少しも思っていない。しかし、道路もそれなりに整備されてきた。欲をいえばキリはないが、自動車を所有し走行するためには費用が嵩(かさ)む。その自動車関係諸税は明らかに高すぎる。暫定税率でほとんどの自動車関係諸税が倍以上になっている。もう本則税率の範囲内で道路整備をして欲しいと多くの国民は考えているのである。その按配具合・バランスを問題にしているのである。私はきわめて健全なバランス感覚だと思う。
この健全なバランス感覚から国民の60%以上が道路特定財源の暫定税率を今後さらに10年間も維持することに反対しているのである。いっぽう本則税率の3兆数千億円では除雪や補修工事しかできないと自公“合体”政権や知事や市町村長はいっているのである。だが、それは真っ赤な嘘である。3兆数千億円の道路特定財源があれば、必要な道路の整備は十分できる。もしそれでできないというのなら、一般財源を道路予算に回せば良いだけのことだ。その場合に文教や福祉の予算を削ってまで作らなければならない道路なのかという国民の真剣な議論が行われることになる。
地方財政に“穴があく”と福田首相も知事たちもいっているが、自公“合体”政権が参議院で過半数を失ったのであるから、道路特定財源の暫定税率が廃止される可能性があることはある程度考えておかなければならなかったのだ。暫定税率で入ってくる税収は、会社でいうならば見込期待額にすぎない。見込んでいた売上金が入ってこなかったからといって手形を決済しなかったら、不渡手形となり倒産である。そんなことをいっている首相や知事は、地方公共団体を経営する能力が欠如しているのである。恥ずべきことなのであるが、逆に居直っているのだから始末に負えない。
以上がいま争われている実体的問題である。本来ならば福田首相や知事がいくら泣いても叫んでも、国会が租税特別措置法改正案を成立させてくれなければ本則税率の税収で道路の整備は行うしかないのである。国会の意思が暫定税率に反対ならば、それで我慢するしかない。多くの国民はそれで少しも困ったことだとは思っていない。もしそれでいろいろな不都合が生じてきたら、そのときに考えれば良いと考えている。私もそれで良いと思っている。税とサービスの関係を考える癖を、わが国民はもっと身につけた方が良いと考えているからだ。
それなのに自公“合体”政権は、2年7ヶ月前に行われた郵政選挙で獲得した化け物のような議席を衆議院でもっていることを奇貨として、憲法59条2項および4項で租税特別措置法改正案を再可決して、法律にしようとしているのである。こうした行為が、憲法上問題にならない筈がない。ほとんどの憲法学者はこの実態に目を向けようとしていないのである。このような実体的問題があるのに、憲法59条2項および4項の解釈として何らの疑念がないというのは、最初から問題意識がないからである。
最近どこかで読んだ文章だと思うであろう。そう、これは永田町徒然草No.790「今回の再可決は、憲法違反」からの引用である。目前の憲法問題について問題意識をもって発言・行動しなければ、憲法は死んでしまう。憲法97条の「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」という精神は、基本的人権だけではなく憲法59条などの制度的規定の解釈に当たっても同じように重視されなければならない。
憲法を守ろうという陣営から、今回の再可決について憲法上疑義があるという発言は残念ながら聴けなかった。圧倒的な国民が反対し強い違和感を感じる今回の再可決が憲法に照らして疑義がないことなどあり得ない。法律論がいえないのは、法律論が不得手なのではなく問題意識が欠如しているからである。昭和憲法を“権利のための闘争”の章典と考えれば、法律論が組み立てられない訳がない。野党に求められているのは、国民の立場に立った憲法解釈論を組み立てる能力なのである。
自公“合体”政権の問題点に、多くの国民が気付き始めてきた。この点に関する憲法の条文は、いうまでもなく憲法20条である。第20条1項は、「何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と定める。特に後段の「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」をどう解釈するかが問題なのである。この条文に基づき私は10年間も戦ってきた。この条文が危惧する問題点は、自公“合体”体制が幅をきかす中で現実に露呈してきた。憲法に違反するもしくは憲法上の疑義があることは、必ず現実な問題を惹き起こすのである。私の基本的意見は「自自公連立内閣は、憲法20条に違反する」で述べてあるのでお読みいただきたい。
私のWebサイトには、数千ページがある。その中でいまなお一番多く読まれているページが「忍び寄る警察国家の影」である。もう3年半も前に書いた私の体験談である。かなり長い書き物だし、あまり出来の良い読み物でもない。Googleで「職務質問」を検索するといまなお2番目にいつも出てくる。もう3年間もずーっとそうであった。職務質問を受けたという相談は、私のところに沢山くる。しかし、職務質問を事後に法律的に争うことは実務的に難しい。弁護士の仕事として裁判で争われることはきわめて稀である。だから警察当局の解釈が罷り通っているのである。なんとかしないとますます酷(ひど)いことになる。
憲法を守ることは大切である。しかし、具体的問題について国民の“権利のための闘争”の章典としてこれを武器として戦わなければ、憲法は無機質な条文の羅列となってしまう。昭和憲法に命を吹き込み内実豊かなものに育てるのは、国民の弛(たゆ)みない“権利のための闘争”である。その戦いを国民と共にて行うのが、法律家であり、憲法学者であり、野党の政治家の任務である。鋭い問題意識と不屈の精神がいま求められている。憲法記念日にあたり私はこのことを強く訴えたい。
それでは、また。